見出し画像

#3 アヤシイ情報商材がなぜアヤシイのか考えてみた。

「自分は〇〇というビジネスで権利収入を作りました。〇〇始める前は貯金もギリギリだったのが、今では年に何回も海外旅行してます。簡単に不労所得を作る方法はこちらから!」

こんな広告に出くわしたことはないだろうか。

ネットで見かけるビジネスノウハウやダイエット方法、概して情報商材広告はとってもアヤシイと思っている。
「こんなアヤシイ宣伝に広告費払って載せて、買う人居るの?」と常々不思議に思っている。

いや、正直に言うと、私自身、女子中学生だった頃にお年玉をはたいて「絶対に自然なぱっちり二重になる方法」という1万円くらいの情報商材を代引きでこっそり買った事がある。自分も情報商材を買ってしまった過去を持つ人間である。買ってしまう人を馬鹿にする気は毛頭ない。
結局ぱっちり二重にはならなかったが。

今思えば、情報商材だけに限らず広告というものは往々にして、多少の誇大表現や、意図的に不都合なことを伝えない調整が存在するものだ。
企業やビジネスパーソンに限らず、私達一般個人ですら、自身の宣伝のために多少の見栄を張ることはある。
気になる異性との食事の為に、奮発してワンランク上の勝負服を買う。上司にできる奴だと思われたくて少し無理しても仕事を引き受ける。それは人間の性質の1つである。

それを加味しても情報商材の大半には全く誠実さを感じない。
そういうアヤシイ広告はストーリー仕立てになっていて、大体成功した人の(1)輝かしい現在→(2)できそこないの過去→(3)その過去を変え現在に導いた技術・ノウハウの紹介という構成になっている。

そう、例えばこんな感じの広告だ。

「自分は現在、月収〇〇〇万円を稼ぐFXトレーダーです。好きなところに旅をしながら、1週間に数時間トレードするだけで生計を立てています。今でこそこんな生活をしていますが、昔は仕事の全くできないダメ会社員だったんです。〜リスクフリーで自己実現ができた方法はこちらから」

「〇〇キロのダイエットに成功して、今ではナンパされまくりのモテ美人♪でも昔は体重〇〇キロのいわゆるおデブさんで、よくからかわれていたんです。そんな私の苦労知らずの愛されダイエット方法はこちら」

「〇〇は、世界一のメンターと呼ばれる人物です。彼/彼女の教えは世界に幾多もの大富豪を輩出してきました。今でこそ世界一のメンターと称される〇〇ですが、昔は将来に不安を抱くしがないウェイターだったのです。〜世界一のメンターの教えを無料公開。まずはこちらで無料登録」

こういう話の運びが、この類の広告・勧誘には多い。下手をすれば書籍にもある。
こんな広告を読んで、中には「本当なのかもしれない」「ダメ元で自分もやってみようかな・・」という人も居るかもしれないが、
そういう素直な人にもイメージを持って頂くために、こういう宣伝がクサイと感じる意見を聞いてもらいたい。この胡散臭さを例えて言うなら、フタをしても匂うドリアンのようなクサさだ。いくらその内容が美しいサクセスストーリーであっても、感動的な克服体験であっても、パソコンの画面越しに、またはそういうセミナーに漂う胡散臭さがひどく鼻につく。

興味深いことに、こういう類の広告は昔も今も世の中に蔓延っている。一定の客層には効果があるのか、需要があるのか。少なくとも売り手側からは効果があると思われている宣伝技法であると言えそうだ。

実際、(1)輝かしい現在→(2)出来損ないの過去→(3)技術・ノウハウの紹介という文章構成は、マーケティング的観点からみてすごく合理的にも思える。

(1)で読み手の注意を引き、(2)で読み手に親近感をもたせたり、読み手の現在の状況とリンクさせる。もし上手な文章ならば、この段階で読み手は自然に疑問に思っていることだろう。
「どうやってこの苦境を成功へひっくり返したのだろう?」
そして(3)で商材販売へと話を持っていく。こうして1つのストーリーができあがるというわけである。
もし仮にこの順番を変えてしまったら、ここまでの説得力は得られないのかもしれない。
「輝かしい現在の紹介」をする前に「できそこないの過去」の話からしてしまったら、読み手に充分に印象付けられず、セールス部分まで引っぱれないかもしれない。
先に商材セールスをしてしまったら、読み手はストーリーをパーソナルなものとして共感できず、ただ「売りつけられている」印象を受けるかもしれない。
そう考えると非常に賢い構成なのだろうとも思えてくる。

しかし私がこういった広告全般に感じる違和感も本物である。こういう広告に信用をもてないし、ましてや何かを買おうとも思わない。

この直感的な違和感を、言葉にして表せるか試してみたいと思う。

(1)いきなり始まる経歴紹介への違和感

ノウハウが知りたいからページをクリックしたのに、突如、赤の他人の身の上話が始まる。
「いやいや、あなたの身の上話なんて少しも興味ありませんけど。」最初に感じる違和感はこれに尽きる。
いきなり「いきなりですが、自分は年収〇〇〇〇万です」とか「権利収入で不労所得を手にし、〇〇歳でセミリタイア中です」とか、良い大人ならまず言わないんじゃないかということを最初から全力で訴えてくる必死さに早くも不信感いっぱいだ。ツイッターや、実名出しのフェイスブックでもこういう自己紹介をする人は多いが、いくらフォロワーが多くても信用ならない。

100歩譲って、こういう自慢行為(?)を声高々にする神経を許すとする。
しかし、なぜこの人達は、ここまでファーストインプレッションに必死になるのだろうという疑問が湧く。
恐らくだが、この人達も、読み手との関係が短期決戦の勝負であることが分かっているのではないだろうか。見込み客が冷静に考え始めたり、他の商材と比較し始めたりすると購買への勢いが削がれてしまう。要はコンテンツを精査されると困るのだ。だから、読み手が冷静になって脳を働かせる前に自分の年収やら自分の持つ車のコレクションやら、訪れた国々の自慢をして、見込み客の感情のボタンを押そうと躍起になっているのではないか。
大体そういう宣伝は「今だけ特別価格」「期間限定」という期限とセットになっていて、読み手の感情の高ぶりと焦りを引き出し、我に返る前に購買アクションを促そうとしているように思える。

(2)「できなかった人間」アピールが本当に酷すぎて共感できない

自己実現ができたという輝かしい現在の説明の後には、決まってできなかった昔のエピソードがやってくる。

「昔やっていた営業の仕事では、万年成績ビリで周囲からバカにされる毎日」
「レストランでバイトしていた時には同じミスばかりでクビ寸前」
「昔は周りからはデブやブスと言われ、無理なダイエットをした結果、ますます食べることに依存していきました」
そしてこの決まり文句が続く。
「でも、この方法のお陰で、そんな状況から脱却できたのです」

自分は特別な人間ではありません。かつてはあなたと同じ悩みを持った人間です。私に出来たなら、あなたにもできます。とでも言いたいのかもしれないが、それにしても、なんか大げさ過ぎじゃないか?もし本当ならばできなさ加減が凄まじくないか?

「周囲から馬鹿にされる、評価が低い」というのは(1)自分の勝手な思い込みだったり(2)周囲の評価が厳しすぎる という可能性もある訳で、それで自分自身に対してダメ人間の烙印を押す理由にはならない。

でも仮に本当に、自他ともに認めるダメ人間だったとしよう。私は聞きたい。
「そこまで重症化する前に、他に何もしなかったんですか?」

誰しも、何をやっても上手く行かないように思える時期はある。いくら練習しても上達しない。決意が3日しか続かない。そういう一時的なスランプは誰にでもあるし、新しいことを始めたらミスは当たり前だし、そもそも全くやる気がでない時期もある。

でも、改善したいと心から思っているのに同じミスをずっと繰り返して、ずっと同じ地点で留まっているというのは、なんだかノウハウやスキルの有無以前に人間性の問題がありそうな気がしてならない。
書店に並ぶハウツー本の量やキュレーションメディアの充実性、ユーチューブの動画の数から察するに、大概の情報はすぐに手に入る世の中だ。
画期的な方法がなくても地道に努力をすれば、少なくとも底辺は脱出できるのではないか、というのが一般の感覚値ではないだろうか。

なのにその「人生を変えた」という商材・ノウハウに出逢うまで、少しも事態を改善できず、ミスを犯し続けたというストーリーラインが、なんだか薄っぺらくて共感ができない。底辺レベルで居続けることは自分だけの問題でなく、周りにも迷惑がかかる。

努力が足りないのではないか。根本的な考え方や問題に取り組む姿勢がおかしいのでないか。
話を大げさにしているのではないか。
そんな疑問が膨らんで、「これが私の人生を変えてくれたんです!」というドラマチックなサクセスストーリーに、なんだかいまいち共感できない。

(3)「そもそもその話、どこまで本当ですか?」という違和感

いくら当事者が自身の輝かしい経歴を叫んだとしても、ネットではその真偽を証明する機会は少ない。
その年収も、世界各地を旅して撮ったという写真も、ダイエットのビフォーアフターの写真も、フォトショップで簡単に画像編集ができるので信用する根拠などないのだ。
マルチ商法の勧誘も同じだ。
顔と顔を合わせて「私は年収〇〇〇〇万です」と言われたところで、「これは一括現金で買ったロレックスの時計です」と見せられたところで、全ては購買を引き出す為の嘘であるかもしれない。
こちらが信頼するソースで確認がとれない限り、全ての輝かしい経歴は自称でしかない。
ストーリーとして気晴らしに読む分には良いが、お金を払って商材を買うとなると信憑性が低すぎる。

そもそも、この「自称サクセスフルパーソン」が居ないという可能性さえある
どこかの情報商材のプロが、勝手な話と架空の人物をでっち上げて、適当なフィクションで読み手からお金を巻きあげようとしている可能性だって充分にあるのだ。
そんな訳で、情報は厳しく精査しないと自分が馬鹿をみることになりそうだ

以上がアヤシイ広告をアヤシイと感じる根拠である。

もちろん、全ての情報商材が悪いと決めつけるのも良くない。
参考までに自分が好感度を持つタイプの情報商材広告を紹介したい。(買うことはないが)

それは「情報商材の内容を出し惜しみせず、さくっと一部公開している」広告である。
例えば本の試し読みのように情報の一部を無料公開しているものだ。一部を公開しているということ自体が「コンテンツに自信があるから事前公開ができるんだな」と頼もしく感じるし、こちらに内容を事前精査する機会を与えてくれる公平性も好ましい。
メールアドレスの登録を要求するものは、個人情報を何に悪用されるか分からないので絶対試さない。
リンクをおすと、登録などなしにお試し版のpdf画面に飛ぶようなものが良い。

以上、もし情報商材の宣伝をみたり、自分が情報商材を販売する機会が来たら、ぜひ参考にしてみて欲しい。