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誰が悪いわけじゃない、ただ息が苦しい

25歳をすぎると結婚する友達が増える。

25歳、

27歳、

29歳。


結婚式のピークはおよそ2年ごとにやってくる。

ひたすら出ていくご祝儀。


やがて、結婚した友達は子供を産んで母になる。

今まで共有していた話題が、次第に微妙にずれていく。

それまでは、恋愛・仕事・これからの人生について。

母になった友達は、子ども・旦那の愚痴・育児について。


そしてなぜか「いい人いないの?」と突然親戚のおばちゃん化していく。

苦笑いしてやり過ごす。

なんだこの閉塞感。

友達と会うのは楽しい時間なはずなのに、最近なんだか息苦しい。


子どもを産むと生活の中心が子どもになる。

それはわかる。


子ども同伴になる。

それもわかる。


話題の中心は子どもになり、バタバタしてあっという間に時がすぎる。


私が友達との時間に求めてたのってなんだっけ?


子どもじみてるのかもしれないけれど、私は「友達との時間」をきっと求めている。

そこに子どもが入ると、「友達との時間」は

完全に崩れる。

話をする余裕すらない。


そして、無意識に抱いてしまう劣等感。

結婚していない。

子供を産んでいない。


婚活をしていた時期もあったけれど、どうにもうまくいかない。

人には得意不得意がある。

こればかりはタイミングとフィーリングだと思っている。


結婚しないことや子供を生まないことが悪いことではないけれど、幸せそうな家族を見ると勝手に罪悪感とも言えるような劣等感を抱いてしまう。

きっと結婚したくないとも、子供を産みたくないとも思ってないからだろう。

出来れば気の合う人と幸せに暮らしたい。

幸いにも大きな不自由なく育ててもらったけれど、そもそも幸せな家庭に育ってないから人との距離感がよくわからないのだろうか。

完全に拗らせている。


結婚していない、子どもがいないことで私は旅に自由に出られている。

そのことを表現する時、私は最大限に強がって「幸運にも」という表現を使うことにしている。

たしかに好きな時に旅に出られることは、私にとって幸運なのだ。

ただ、ふと振り返ってこの先自分の生きる道に寄り添ってくれる人は誰もいないのかと思うと、突然絶望感に駆られる。

もしかして絶望感や心の隙間を埋めるために旅に出ているのかもしれない。

もちろんまだ見ぬ世界が見たいから旅をしている。

旅には必ず終わりが来る。

終わりに向かって自分次第で達成できる目標をクリアしていくのは心地よい。

失われていた自尊心を少しずつ取り戻していける。

自分の意志だけではどうにもならないことに対峙するのは、正直しんどい。


親や兄弟はいずれ死ぬ。

私もいずれ死ぬ。

死ぬ時は一人だけど、孤独死という言葉の強さに震える。

道端に倒れて、ひとり朽ちていくのか。


なにが怖いのかわからないけれど、なにが怖いかわからないから怖いのだ。

目に見えないプレッシャーを感じる。

自分がひどい欠陥品のように思える。


ただの嫉妬かもしれない。

きっと私が結婚して子どもを産む機会があれば、こんなことを考えていたなんてすっかり忘れてしまうだろう。


誰が悪いわけじゃない。

最近子連れの友達と会うと

うまく笑えてない気がする。

そんな自分が嫌になるし、

嫌になってもお構いなしに湧き上がる感情を持て余す。


子どもがいる友達と会うと

どうしようもなく息が苦しい。


息苦しくなってしまう罪滅ぼしにはならないけれど、

今は「幸せそうに見える」彼女たちとはちょっと距離を置いて、

きっと何もない自分をどうにかするために、

旅を続け、文章を紡いでいく。

そして誰かや世界を少しでも幸せに出来れば嬉しいんだけど、

それはまた別の話。



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