哲学者は物理学者の本気の拳をどう受け止めるか…谷村省吾「一物理学者が観た哲学」を読んで

こんなものが読めるとは思っていなかった。驚き、悲しみ、何度も頭に血がのぼった。そして、著者の本気度に慄いた。

物理学者の谷村省吾先生(以下、谷村氏)による、『〈現在〉という謎』への「補足ノート」が公開された。本書の発行時から、公開が予告されていた文章だ。

谷村省吾「一物理学者が観た哲学」pdf
http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.html

書籍『〈現在〉という謎』に関しては、感想をブログに書いた:

同書で谷村氏と分析哲学者たちの応酬を読んだ私は、当初は谷村氏が「挑発者」の役を演じているのではないかと思った。裏ではお互いわかり合っていながらも、本を面白くするために、敢えて対立点を強調したのではないかと。そうであってほしいとも思っていた。

しかし、違った。本気だった。谷村氏は、物理学者としてのインテグリティを賭してこの対話に臨んでいる。キーボードを叩く手から血が滴っていたのではないかと思えるほど、力んだ筆致だ。

この文章(以下、谷村ノートとする)についての自分の感想や立場は改めてまとめたい。よくよく考え、いろいろ人の意見も聞いてから、書きたいと思っている。

このnote記事では、谷村ノートの内容について触れない。もっぱら私個人の第一印象(おもに情緒的な感想)を記録しておきたい。そんなことをしようと思ったのは、多くの人に谷村ノートを読み、考え、応答してほしいから。そして、ここから始まる議論ができるだけ有益なものであってほしいと願うからだ。

谷村氏は、哲学者からの誘いを受けて「〈現在〉をめぐる謎」のシンポジウムに参加し、主に3人の分析哲学者と「時間」をめぐる議論を行っている。谷村氏は、異分野に飛び込み、物理学者として精一杯真摯な対話を行った。しかし、深い失望感を得るに終わった。対話はすれ違い続け、谷村氏はその原因を哲学者の側に帰している。

3人とのやり取りの経験から、谷村氏の筆致はfull-blownな哲学批判に向かう。話が通じる哲学者や、哲学が扱うに相応しいテーマの存在は認めつつも、こと「時間とは何か」「意識とは何か」「科学とは何か」といったテーマについて、哲学者はいつまでも「錆びついた、お粗末で偏狭な方法」にしがみついていて、とても傾聴に値しないとする。

世界の真理を知りたいと思うなら、私は哲学はやらない。ストレートに科学をやればよいと思う。

こうした記述に対して、私個人の身体には情動的反応が起こった。まず心拍数があがり、頭に血が上り、その後悲しくなった。何が悲しかったのか。

3人の哲学者のうちの一人である青山拓央先生(以下、青山氏)は、私が最も尊敬する哲学者だ。私はその著作から、青山氏が人生を賭けて哲学を行い、自身にとって切実な問題として時間論に取り組んでいることを感じてきた。そんな青山氏の知的探究が、論理的なゲームに興じているだけであるかのごとく捉えられたのは、ただただ悔しかった。

物理学者と哲学者、それもたった4人が、対話をしてもの別れに終わっただけのことではないのか? そういう意見もあるだろう。でも、私としてはそれで済ませてほしくない。

私は大学の学部で物理を学んだ。世界のありようを、人類がどこまで理解したのかを知りたかったから。しかし4年生で「場の量子論」が出てきたあたりで挫折した。もちろん、数学についていけなくなったのもある。しかし、現代物理学がもたらしてくれる「理解」で自分が満足できないと悟った瞬間があった。(光と物質の相互作用の本当の在り方を理解したいと、ある教授に申しでた際、講義で教えた「ラグランジアン」以上に「理解」すべきものがないと言われたのが、私にとってのその瞬間だった。)

そこから、関心が神経科学と哲学に旋回した。哲学には、確かに物理学では答えが出ないが、自分が求める「理解」に接近する道筋があるのを感じてきた。多くの場合、当初の目標は解体・変質させられることになるのだが、それを含めて、哲学者たちの著作に魅せられてきた。

だから、谷村先生のような透徹した自然理解を持つ物理学者と、自分にとって最も大切な問題に触れている青山先生のような哲学者の議論が、このような形ですれ違いに終わるのは、個人的には耐え難いことだった。と同時に、これほどまでに物理学者の自然理解は厳格なものだったのかと驚いた。自分は、物理学の基礎をひと通り学んだつもりでいたが、何もわかっていなかった。

もちろん、上記は私個人の思いであって、ご本人たちはこれ以上相互を理解したいと望まないかもしれない。しかし、その周りにいる、哲学者・物理学者、そして今後、物理や哲学の道に進もうとしている人々にとって、このやり取りは無視できるものではないように思う。

そこで、真理探究を旨とするすべての人にお願いしたい。まず、「谷村ノート」を読んでほしい(「あとがき」と「第4章」だけでも)。

さらにお願いしたい。

哲学者の方々へ:どんなに血管が沸騰しそうになったとしても、全部を読んでから、一度冷静になってほしい。そのうえで、谷村氏や、同じように考える物理学徒たちと、自分ならどんな対話を試みるか考え、発信してほしい。とくに、谷村氏が4.10節で挙げる「すれ違いの要因分析」については応答願いたい。その際、谷村氏ではなく、谷村氏と思いを同じくする物理学徒を宛先にしてほしい。できれば本も読んで、企画自体や3人の哲学者の対話の運び方に思うところがあれば教えてほしい。

物理学者の方々へ:谷村ノートと哲学観を共有する場合、声を挙げてほしい。谷村先生だけを矢面に立たせないでほしい。そしてもし、谷村氏の哲学評価について少しでも意見を異にすることがあれば、指摘してほしい。

それ以外の方々へ:本件で起こった物理学者と哲学者のすれ違いから、自身が何をくみ取れるかを考えてほしい。本当の異分野交流の厳しさを知り、それでも対話の回路を閉ざさないための方策をともに考えてほしい。

そして、「これだから○○学者は」という、内輪向けの言説だけはやめていただきたい。

現状、谷村先生だけが、拳を血まみれにしている。ご本人が望むと望まぬとにかかわらず、この状況を放置してはいけないと思う。知的探究に従事する者たちの真剣さが問われている。「大人の対応」は許されないと思う。

『〈現在〉という謎』に参加した谷村氏と哲学者たちの対話は終わった。しかしそれ以外の私たちの対話は、ここから始まる。

2019/11/13追記:本記事が分野間の対立を煽るものに見えたとしたら、申し訳なく思います。対話の必要がない場合はそのままで大丈夫です。またnote末尾に書いたとおり、谷村先生が臨まれた対話は、ご当人にとっては完結したものと理解しています。…両分野の没交渉を寂しく思う身として、お互いが価値を知る/伝える/共創する好機ではと思った次第です。※谷村先生と平井先生のツイートを貼っておきます。





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R. Maruyama

丸山隆一/理工書の企画・編集/CoSTEP12期/記憶の脳科学/IBS治療中/重ね描き日記:http://rmaruy.hatenablog.com/

hitosama

コメント2件

谷村ノートを読んでみたが、普通に哲学者側に非があると思った。問題を定式化せずに議論を進めるのは学者のあるべき態度としては不適切であると思う。それに、哲学者側が共有したいという問題も「クオリア」「絶対的現在」などの言葉を多用してはいるが結局のところ「自由意志はあるか?」「宇宙に始まりはあるか?」というカントが提唱した二律背反の問題に帰着するように思えるし、谷村ノートを読む限りでは、まさに谷村氏はこの問題がそういう二律背反の問題であり物理学の自然観を批判することにはならない、と主張しているように思える。哲学者側が物理学に無知なのは致し方ないが、そもそもカントの純粋理性批判をきちんと読んだことがあるかどうかも怪しいと思う。
単純に定義や公理、どういう論証を真と認めるかについての共有がされていないのが問題なだけですよね。それが食い違っていたら、話し合う人同士で互いに真と認められる結論が得られない。Aが真でかつA→Bが真のときにBが真というのはけっこう多くの人が認められる話だけど、Aが真でかつA→Bが真のときに(Bとはオーバーラップがあったとしても異なる)Cが真といっても認められないのと同じ。物理の場合、誰にでも同じように観測される事象が説明できれば真で、逆に主観によるような事象には踏み込まない。なるべく多くの事象を説明できる法則を真としようとするなどの共通見解がすでにあると思う。ただ、哲学の場合は、最初から何を真とするかはかっちり定義せずに、議論していくなかで、なんとなく納得できたらOKみたいな雰囲気があるような気がする。つまり、厳格な設定のもとで、何が真といえるかを追求するのを目的にしているわけではないのだと思う。だからある意味、議論好きな人なコミュニティだと思っていいんじゃないかと思う。そんなに真剣に血を流すような話でもないでしょとおもってしまう。谷村氏はより根本の論理に目を向けるべきとおもう。
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