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11月生まれの弥生ちゃん(3)〜弥生ちゃんと呼ばれない日々〜

2005年、1月にあった第7弾公演「D・H・3」に私は出演した。
(http://tenkiyohou.net/rireki/rireki_detail.php?id=DH)

専門学校の卒業制作に、映像の小品を出展した私は、学校では何も作業できず、稽古して、家に帰って、卒業制作の映像とDH3の効果映像を死ぬ気で作った。
そして、本番2日前にインフルエンザでダウン。
本番を熱を出しながらようよう乗り切り、卒業制作の映像ブースは同級生に全て設営をやってもらうというとんでも待遇で、卒業の日を迎えた。

そして、私は地元のIT企業に就職した。

はずであった。

大阪で4月、5月に研修をうけ。
まだ語れない非常に衝撃的なことがあり。

そして、夏。
私はなぜか東京に居た。

突然の転勤と、突然の一人暮らしが始まったのである。
同期の男の子たちは、寮に入った。
そして、唯一、女1人の私は、お金も家具もないまま、東京での1人暮らしが始まったのである。

給料は、対して残ってない。
大阪での研修は最初はホテル住み、後半1ヶ月は家具付きのウィークリーマンション住まい。
え?家賃ないでしよ?金貯まるじゃん、とお思いかもしれない。
だが、4月5月、毎日のように同期たちと大阪の街に繰り出していた私の所持金はとてもじゃないが潤沢とはいえなかった。
社会人になってうかれていたのである。

その結果、転勤時の所持金、数万円。
大阪研修のために買ったボストンバッグに詰め込めるだけ鍋やら、服やら詰め込んだ。

それが悪夢の東京暮らしのスタートだった。

最初は池袋の立教大学近くのアパートに住んでいた。寮という名のアパート。
立教大学は、憧れの学校だった。
なぜなら、好きな作家さんが通っていた大学だったから。
しかし、東京の繁華街は恐ろしい。
トレーナーや、パジャマみたいな格好でうろつくには、少々敷居の高い土地だった。

ぶっちゃけ治安も悪かった。
夜中に響く爆発音。酔っ払いの叫び声。女の人の叫び声が聞こえたときは本当に心臓がすくんだ。

あと、岡山と違って東京は地震が多い。震度も違う。
「海外の人は地震慣れてないもんねぇ」と笑う人。
地震に慣れてないのは海外の人だけではない。
国内の地震に慣れてない人のことを見くびらないでほしい。
岡山県民も、大抵びびる。

5分歩いたら、池袋の繁華街。大学生が行き交い、パリピたちがたむろする。こわいヤンキーめっちゃいる。嬌声、歓声、店から垂れ流される音楽、車のクラクション。
本当にうるさくて、煩わしさで、気が狂いそうだった。

私は、同期とは別のプロジェクトに一人だけ派遣された。

のちにその理由を当時のプロジェクトを指揮していた人に聞く機会があったのだが、すごく単純で腹の立つ理由だった。
「女の子いた方が、俺のテンションあがるから」
そして、さらに腹がたつことに、この人はマジで仕事できちゃう人だった。
あと、犬顔してて憎めなかった。
だからこそ、地味に腹がたった。

プロジェクトに参加している人たちは同年代のはずなのに、とにかくキラキラだった。
雑誌のモデルみたいにお洒落にオフィスカジュアルを着こなし、さりげなくブランド小物を持っていて、ピカピカのパンプス。美容院で細かく手入れされているツルツルの髪。ささやかに薫る香水。

私はそんな現場に、数ヶ月、上下あわせて5000円のスーツで通勤することになる。

給料は岡山の給与のままなので、とにかく服を買うまでの余裕を作れなかった。日々の暮らしで必要なものを買うこと、仕事の付き合いの飲みにお金を出すのが精一杯だった。

「まじめなんだね、◯◯さん」
スーツで通勤する私は、よくそう言われた。

そう、私は弥生ちゃんではなく、ただの◯◯さんになったのだ。
「弥生ちゃん」と呼ぶ人は、たった一人しかいなかった。
まあ、その人にも一度会ったっきりだったんで、居ないと言って差し支えないと思う。

「わっかちゃん」と呼んでくれる人はいた。
当時はまっていたラグナロクオンラインで、東京に来た私をオフ会という名目で遊びに連れ出してくれた人たちがたくさんいた。
飲み歩き、カラオケに行き、ネカフェで遊び、ぶらぶらと観光し、どんな服を買えばいいかわからない買い物に付き合ってくれる。

時間がなくて料理が出来ずコンビニ弁当ばかりの私にミートソースを届けてくれたり。
遠いビーナスフォートまで車出してくれたり。
仕事の愚痴を聞いてくれたり。友達になってくれた。

まるでお祭り騒ぎみたいで、楽しかった。

でも、日常に戻ると、地獄が待っていた。
環境はいいはずなのに、私は徐々に病んでいった。
池袋の街を歩くと、自分がまるで社会から疎外されているような、笑い者にされているような妄想を止めることができなくなったのだ。

はっきり時期は覚えてないが、最初に赴任したプロジェクトが終わり、立川に出向していた時だったと思う。
片道1時間半。
終電で帰ることも少なくない日々。

一番しんどかったのは、街を歩いている時が怖かったことだ。
皆が自分を笑っている気がする。
指をさされた気がする。
後ろから誰かにつけられてる気がする。
幻聴が聞こえる。

そんな状態で、まともに会社に行けるわけもなく。遅刻と欠勤が続いた。
現場の上司に呼び出され、岡山の上司に呼び出され、叱責を受けた。

そんな折、当時、親しくしていた上司の勧めで心療内科にかかることになった。
なぜか初回診断で鬱と診断されて、馬鹿みたいに10種類以上の薬が処方された。
飲んだら立ち上がれなくなり、目が回り、更に体調が悪くなった。

私は勝手に薬を絶った。
次の日から正常に動けないのであれば、意味がなかったから。
私が求めたのは、病院に行って、次の日から朝ちゃんと出社するよう体調を整えられる万能薬だった。

今だから言える。
「そんな都合のいい薬があるか!!!」

そうやって異常を治療しないまま、立川での勤務が続く。そのうち、私は岡山の配属から東京の配属になっていた。
給料はちょっとあがった。
家は池袋から神奈川に移転になった。
立川にちょっとだけ近い場所を探してくれた。
配属変更の折に、通勤がしんどすぎることに気づいた上司が新たに寮を手配してくれた。

神奈川の家は、近くに山があり、駅の裏側に商店街がある何処か牧歌的な土地だった。

少し安心したのか、神奈川ライフの間に症状は多少落ち着き、少なくとも幻聴と急なパニック発作は出なくなった。
頻繁に私は、家から徒歩15分の山を登った。

症状は緩和したけれど、私はわからなくなっていたのだ。

私は、一体どこの誰で。
誰に私の所有権があるのか。
誰に私の人生の決定権があるのか。

私、東京で結婚するの?
ここで家庭を築くの?
私が望んでないのに?
なんで?

私はなにがしたいの。
私は誰なの。
私の人生は、誰かのものなの?
そんな人生に、私が立ち向かう意味はなにがあるの?
私はどうやって現実と折り合いをつけたらいいの?

朝日さす満員電車の窓ガラスで。
空調の効いた閉ざされたビルの喫煙所の窓で。
ひとりぼっちで本だけが増えていく部屋の窓で。

ずっと、ずっと自分に問いかけていた。

時折、岡山に戻った。
転機与砲の公演の手伝いをしたくて。
「ここにいていい、いつでも来ていい」って行ってくれたから。
ぶっ壊れかけた心のまま、私は安心したくて、何万円も握りしめて、転機与砲の楽屋に行った。
でもそれも、限界だった。
作品に関われない。新しい子たちと馴染めない。

たった、3年程度のことである。
でも、人生の3年は短いけど、劇団の3年は長い。
変わっていく。
知らないところで、全部。

何かに抗うように、私は部屋に本を溜め込んだ。
神奈川で暮らした二年間で読んで、集めた本は300冊をゆうに超えた。(捨てられなくて岡山に多額の運搬費を払って持って帰った。のちに父のお小遣いになった)

ペプシコーラにはまった。
私の部屋は、本とペプシコーラの空きペットボトルに埋め尽くされた。

部屋から本かゴミが溢れ出すのと、私が壊れるの、どちらが早いか。
そんなチキンレースが始まった。

そんな時、夫に出会ったのだ。

この時出会ったと表現するのは厳密に言えばおかしい。
20歳の頃には、当時学生だった夫に出会っている。劇団の忘年会で雑魚寝した仲である。
尚、当時、彼氏がいるのに私は一目惚れかましたクズでした。
しょうがなかったのだ。夫は。
可愛かったのだ。

ぶっ壊れる数ヶ月前に、私は彼と話す機会を得れた。
そして、好きだと確信して、当時付き合っていた人と別れて、付き合い始めた。
幸福感に満たされた日々が始まる

はずだった。


その数ヶ月後、私は布団から起き上がれなくなっていた。
強烈な目眩、吐き気、不定期な睡眠。
その頃、明らかなオーバーワークを1ヶ月以上続けていた。

起き上がれず、三日がたった。

会社に毎朝連絡いれながら、このまま死んで、腐って、私の人生ここで終わるんだなぁってぼんやり思ってた。
惨めだなぁって、流石に泣いた。
泣いて眠った。

病院に行こうとか、どうしようとか、考えられなくなっていた。
このまま、死んじゃえって結構な割合で思ってた。

何にも役にたたない。価値がない。
価値がなければ、私に居場所はない。
このまま、消えればいいのに。
そしたら傷つかずにいられるのに。

と、割とガチに思っていたので、多分本当にやばかったんだと思います。

そのやばさが伝わったのか、上司に病院に行くよう説得され、彼も同じように病院に行けと説得され。
重い体を引きずって、なんとか内科に行った。

さすがに点滴を打たれた。そしてその後、大きな病院への紹介状を渡された。


大きな病院で、「仕事辞めて家族の元に帰りなさい、診断書は書いてあげるから」と言われた。なんか、その一言にほっとして泣いてた。

そっか、会社って辞めてよかったんだ。
そんな当たり前の、どこにでもある選択肢を、選んでいいよと言われて。
初めて、私は、ずっとそうしてよかったんだと安心した。

その後、私は会社を退職した。
案の定、「お前なんかどこも雇ってくれんぞ」という呪いの言葉をいただきました。
薄ら笑いで「そうですねー」と言って、密かに絶望した。

今なら言える。
心を病んで退職する20代のうら若き私にこんな発言したこの上司、まじでサイコパスだと思う。

残念ながら、雇ってくれる店や会社はありました!
収入はおおくないけど、今の仕事とても楽しいですぅ!!
私のの10年後は、常連のおじちゃんおばちゃんと小粋にトークを回す、ワンオペカラオケ店員だ!!
おばちゃん達が、内緒でポケットいっぱいにお菓子くれる優しい未来が待っている!!!

こうして、私の20代前半戦はようやく終わりを告げた。
激闘?の20代前半で無理をした色々の後遺症を多少克服するには多くの歳月がかかった。

日中活動できるようになるまで2年かかり。
カフェイン飲んだら吐き下さなくなるまで3年かかり。
正常な睡眠が取れるようになるまで、5年かかった。
次の日が仕事でもちゃんと眠れるようになるまでは更に時間がかかった。
長時間労働で冷や汗をかかなくなるようになれたのはつい最近のことだ。

ただ、この空白期間にたったひとつ、取り戻せないものがある。

「平常な社会人としてのキャリア」。

名実ともに社会のレールから落ちこぼれた私が、悲観せず今いられるのは、二つ大事なものを取り戻したからである。

ひとつは、岡山という故郷に住むこと。
もうひとつは、劇的集団 転機与砲の「月邑 弥生」を取り戻したこと。

新しい大事なものも増えた。

夫ちゃんがそばにいる毎日である。

夫ちゃんは、私の思考の癖を直すのに長年根気強く付き合ってくれた。
ネッチョリ被害者意識強い系の私の性格を、楽天的に明るくしたのは、夫ちゃんとの議論と絶え間なく与えられる肯定感。

あなたが好きだよと言い続けてもらうことって、人生においてとっても大事なことだと私は思うのです。
喧嘩もするし、腹たつことも多いけど、夫ちゃんがそうしてくれなかったら、いつまでも卑屈でい続けたと思う。

だから、大事な人が卑屈で困るんよという方は、5年間毎日「好きだよ」「かわいいよ」って言い続けるといいです。
人は変わるまで、いっぱい時間が必要なので、一度や二度の言葉で変わるなんて、そんな芝居みたいなこと現実じゃおきないんだよぉ!!

尚、私は逆のことはできません。
すぐ色々なことに夢中になるので。
そう考えると、夫ちゃんって、ほんとすげえ男だと思わない?
超自慢なのです。
尚、彼を超自慢する回はいずれ書く予定です。
この男、10年後、実にすごいことをやり遂げてしまったのです。
ですが、そのお話はまた今度。

次回は私が「月邑弥生」を取り戻し、新たに野望を抱くまでをお話しできたらいいなと思います。

次からは明るい話になるよ!
多分ね!

#セルフストーリー #アマチュア #演劇


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弥生

岡山でアマチュア劇団「劇的集団 転機与砲」に所属中。

11月生まれの弥生ちゃん

11月に生まれ、「弥生」と名付けられた私。 なんの変哲も無い人生が、お芝居に出会い、ほんの少しだけ変わっていきました。 そんなセルフストーリーを綴る、超誰得?な自伝マガジンです。
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