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蟲|短編小説

カフカの小説だったっけ。人が大きな虫になるお話。

なんとなく話の中身は知ってるんだけど、真面目に読んだことがない話の代表。
気持ち悪そうだし、きっと予想ができない酷い目にあうんだろうってことだけは想像で知ってる。
あの話、ちゃんと読んどけばよかったな。

鏡を見ながら、僕はそんなことを考えてた。
朝、いつものように起きて、出社する準備をしようと洗面台の前に立った時、鏡の中の自分の顔が、いつもとは全く違う、緑色に変化していることに気づいたから。
緑色になっているだけじゃない。
目があったはずのところには、ぽつんと左右に黒い丸がある。
その丸をつなぐように、カチューシャみたいな柄がある。
僕の口は縦に割れ目があって、口を動かしてみるとおおよそ人体ではできないような動きをしている。

……なんか、子供のころに見たことがあるぞ、これ。
これ、なんだっけ?

眠気で霞がかる頭を動かそうにも、いまいちはっきりとしない。
とりあえず、顔を洗おうと蛇口をひねり、冷たい水で顔をひとしきり洗ってから気づいた。
手も足もあることに。

そのことに気づいた僕は、来ていたパジャマを脱いで、玄関先にある姿見の前に立った。
僕の体は、変わっていた。
首から上だけが、虫になっていたのだ。

――さて、どうしたものか。
病院に行くべきなのか、会社に行くべきなのか。
僕は気づいた。この奇妙な状況を説明するためには、人と話す必要があることに。
病院に行くために外出して、運悪く警察に見つかって、職務質問をされるのなんかまっぴらごめんだ。
いや、確実に職務質問はされるだろうが、説明できないままに変人扱いされて面倒に巻き込まれるのが、嫌なのだ。

なので、僕はこの状態で声を出すことが出来るのか? を確かめる必要があった。
喉をそーっと抑えて、声を出してみる。

「あーーーー」

成功だ。よかった。僕は踊りだしたくなった。
これで人に話かけることができる。
口の形が人間と違うから、少々聞き取りづらいかもしれないが……。

いや、待て。あ、という音の発声はできた。
しかし、言葉をしゃべることはできるのだろうか。
声を出せるだけでは、そこら辺の動物と一緒だ。
犬がワンと鳴くように、カラスがカーと鳴くように、僕はアーと言えただけだ。

言葉だ。人間と話すためには言葉がいる。
言葉は喋れるのか。僕は手近にあったペットボトルを掴む。

「かいせんごはかならずきゃっぷをしめて、れいぞうこでほかんし、なるべくはやめに、おのみください」

ああ、なんて奇跡だ。なんてファンタスティックなんだ。
どんな原理になっているのかはわからないが、言葉を話すこともできるらしい。
よかった。これで僕がただ好き好んで虫のお面をつけている変な人間ではないことを、全世界の人類に説明できる!!

僕は意気揚々とスーツを着こみ、会社用のカバンを手に取った。
いつもならパンを食べて外出するのだが、どうにもこの口で物を食べる気にはなれない。

でも僕は人間だ。ちょっと虫みたいな顔になっちゃった人間だ。
よかった、それを説明できることがわかったから、きっと大丈夫だ。
1日くらいほっといたら顔が元に戻るかもしれない。
いや、むしろ僕の精神がほんのちょっとおかしくなって一時的に自分の顔が虫っぽく見えているだけで、ひょっとすると普通の人間の顔をしているのかもしれない。
意外と外出したら、他の人には僕の顔は変に見えないかもしれない。
だってまだ僕しか僕を観察していないわけだし。

勢いのまま僕は部屋の扉を開こうとしたが、その手が一瞬迷った。
でも、実はそうじゃなかったら?
ふと、そんなことを考えた。
もしかしたら、この顔のまま外に出たとして。
他の人が僕の顔をみたらどんな反応をするだろう。
驚く人、怖がる人、気味悪がる人、面白がる人、ふざけているのかと思う人。
きっと、色んな人がいる。
そしてその色んな人がとる行動は、大概決まっている。


僕を写真や動画に撮影して、SNSやyoutubeで「恐怖! 妖怪・昆虫人間」とかタイトルつけて、リアクションを期待するに違いない。
そして、たぶんそれはバズるだろう。あらんかぎりバズり散らかして、僕は浜田勝という名前を忘れられて妖怪昆虫人間として生きていく羽目になるかもしれない。
いやだ。
僕は浜田勝だ。決して妖怪昆虫人間などではない。
僕はスーツに似合いそうなおしゃれな黒いハットを手に取り、目深に被った。
そして、まだ春先で肌寒いことを理由にできるだろうと、マフラーも巻いた。

よし、これで僕が妖怪昆虫人間としてバズり散らかすことはない。
僕は浜田勝という普通の人間として生きていけるはずだ。


しかし、僕はこれから、どこに行くべきなんだろうか。
病院? 会社?
いつもの浜田勝は、午前7時には家を出て、満員電車に揺られて会社に向かう。
だが、病気の時の浜田勝は、病院が開く午前8時半に市内の総合病院に向かう。
僕はどちらの行動をとるべきなのだろうか。

会社に行くべきか?
いや、確かに僕は事務職だから普通に仕事はできる。だが、職場の同僚と顔を合わせた時、どう思われるだろうか。
ふざけている、と思われるかもしれない。
そして、僕を嫌っている課長は、きっと僕を「ちょっと」とか言って呼び出して、その顔はどうしたと聞いてくるだろう。
もちろん、これは僕の顔が本当に虫になっている場合、だが。
そして、おそらく病院に行け、と言われるだろう。

病院に行くべきか?
病院に行ったとして、どの科の受信を受けるべきなのだろうか。
外科? 内科? 整形外科? 美容外科? 皮膚科? それとも精神科?
受付で聞けばいいのかもしれない。
でも。
もし、病院の受付のちょっとかわいいお姉さんが僕の顔を見て、ほんの少し驚いた顔をした後に上司に相談しに行って。
それから僕のところに白衣を着た偉いっぽい白髪の病院長が奥からやってきて「すみませんが、うちではちょっと…」とか言われたら。
僕は一体どこに行けばいい? 誰に相談すればいい?
わからない。わからない。

いや、一つだけわかることがある。
母に相談しよう。
子供の頃から何か困ったことが起きたら相談するのは母だった。
小学生の頃、滑り台を何回滑れるか友達と競争して、ズボンが裂けた時に相談するのも母だったし。
中学生の頃、高校の進路に迷ったときに相談したのも母だったし。
高校生の頃、どんなバイトをするのか迷ったときに相談したのも母だった。
大学生になって初めて女の子と付き合ったときに「ほんとしょうもない男よね」と言われた時、母に相談しようかどうかはとても迷った。
迷った上で相談しないと決めたのがきっかけで、だんだん母に相談することはなくなっていったけれど……。
今回ばかりは別だ。母に相談するべきだ。

僕はカバンから携帯電話を取り出して、母の番号に電話をかけた。
何度目かのコールの後、「ただいま電話に出ることができません」という無機質なアナウンスが流れる。
……たぶん、手が離せないタイミングなんだろう。

僕は携帯電話で自分の顔を自撮りした。
自撮りした写真には、やはり僕の虫的な顔が写っている。
写真を送って、LINEにメッセージを入れた。

「顔が虫になった。朝起きてたらこうなってたんだけど、どこ行ったらいいと思う?」

既読がついた。
母はどんな顔をしてこのメッセージを見ているのだろうか。
悲しんでいるだろうか、驚いているだろうか。

ぴこん、と通知音が聞こえた。
母からのメッセージはこうだった。

「イケメンになったやん。外に出たら有名人になれるんちゃう」

僕はすぐ母に電話をかけた。今度はすぐに出た。

「ふざけてるわけじゃないんだけど。マジなんだけど」
「ようできたマスクやな。気持ち悪いくらいようできてるな。そんなんどこで買ったん。イオン?」
「……イオンにこんなもん置いてあるわけないだろ」
「ほら、あの、ビレなんとかって店ならあるやろ。あそこ変なもんばっかり置いてあるし。あそこで買うたん?」
「母さん、信じてくれよ。ほんとにマジにこうなっちゃってんだよ。マスクなんかじゃないんだってば」
「はははは、あんたはほんま子供の頃から変わらんな。朝からよう笑わしてもらったわ。仕事遅れるやろ、ほらそろそろ行ってき。朝からありがとな」

僕がちょっと、と声を出す前に母は電話を切ってしまった。
いつも母はそうなんだ。
僕が言いたいことをいう前に電話を切ってしまう。


僕はため息をついた。
母の反応は至極まっとうだ。僕がもし母の立場だったとして、いい年をした子供が何か変な写真を送ってきたら、呆れるか、笑うか、怒るかだ。
まだ母の対応は優しいほうだと思った。むしろ呆れられたり怒られるより、笑われるほうがましだ。

……いや、違うそうじゃない。
僕は困っている。僕の顔が虫になってしまった現状が理解できなくて、とても困っている。それを解決するために何をするべきか、全くわからない。

もう一度冷静になって考えてみよう。
こういう時、人はどう行動するべきなのか。

病院に行って問題解決をするべきなのか。
それともこのまま自分の状況を見知らぬふりして、人間世界に戻っていくべきなのか。
それとも、逆に人間とのかかわりを絶って人目につかないところに行くべきなのか。
病院にいけばより深い絶望が待っているかもしれないし、人間世界に戻るにしても変な人として扱われるのは明白だ。

で、あれば。
人目につかない秘境にでも引っ越して、自分の姿を隠しながら生きるのが一番良い選択じゃないだろうか。
でも、どうやって生きる?
当然そんなところにいけば仕事ができなくなる。そして人目につかないように生きていくということは、自給自足で生活のすべてをまかなわないといけない。
そんなこと、果たして可能なのか?
今まで僕はオフィスで事務処理をする仕事しかしてきていない。
肉体労働をしたこともなく、畑で土を耕す方法すら知らない。
それどころか、カレーや味噌汁だって満足に作れない。
その証拠に、ぼくの食事はほとんどが安い定食屋での外食だ。

僕が人目につかない秘境で人にかかわらずに生きていけれる可能性は無理0とは言わない。やってやれないことはないとも思えるが。
そもそもこの日本という土地に秘境というものはあるのだろうか。

僕はすぐさまgoogleで検索をかけた。
『日本 秘境 人が少ない場所』
恐山、礼文島、遠野の里、青ケ島、黒部ダム。
……どの場所の写真も、美しい景色が広がっていた。


いいなぁ、秘境。いいなぁ、秘境。
日本にも秘境と呼ばれる場所は案外残っているらしい。
温泉・観光・奥深い自然。素晴らしい。こんな場所で過ごしていれば、自分の顔が虫的な顔だろうが、気にならないかもしれない。

現実逃避はやめよう。そう、ぼくが考えるべきなのは、これからどうするべきかということだ。
――どのみち、今日の今日、秘境に行ったとして。
住む場所どころか寝る場所すらないではないか。


とりあえず、追い返されるかもしれないけれど病院に行こう。
どうせ帽子もかぶって、マフラーも着用している。具合が悪い病人にしか見えないことだろう。ここまで準備しているんだ。あとは僕が、家の扉を開けて病院に行く勇気さえ出せばいいのだ。

そう。人生は勇気だ。
この先に絶望が待っていたとしても、僕はこの扉を開けて歩き出さなければならないのだ。

僕は大きく深呼吸をして、それから、玄関の扉を開いた。

僕は歩いた。一心不乱に自分の足元を見つめながら歩いた。
誰かに僕の虫的な顔が見られているかもしれない。どこかで写真を撮ってる不埒な人間がいるかもしれない。誰かが僕を指さして笑っているかもしれない。
それを考えると怖かった。そして、そうされていることを認識するのも怖かった。
僕は、足元だけを見て、速足で病院に向かう。

病院に向かう途中、カラスが「カァー――――!」と大きく鳴いた。
そのあまりに大きな声に僕は驚いて、はっと上を見上げた。
羽を広げた、大きな、大きなカラス。
まるで何かを威嚇するように、驚いたように大きな声で鳴いている。
僕か? 僕なのか?
人間だと思ったら顔が虫的な感じになっていて、カラスでさえそれを見て驚いているのだろうか。
そりゃカラスの身になって考えたらそうだ。
今まで見たことがない生き物が、歩いているのだ。驚いて当然だ。
攻撃されないうちに早く行こう。
僕はそう思って足を踏み出そうとしたとき。

バシャッ

水が僕のスーツを濡らした。

「うわっ……!」
「ああっ! ごめんなさい!」

どうやらその水は、右手の路地沿いの家の人が撒いたものだったらしい。
その家の人がこちらに向かってくる気配を感じて、僕は大声で叫んだ。

「大丈夫です! 大丈夫ですから!!」

そういって、僕は一目散に走りだした。
だめだ。こんな姿を見られてしまったら、きっと驚いて通報されて、僕は警察に捕まってしまう。病院に行く前に警察に捕まったら、病院にいけなくなってしまう。それは困る。とても困る。
何が困るのかもうわからないけれど、とりあえず、困る!

病院に僕はなんとか駆け込んだ。
勢いよく病院の玄関を駆け抜け、自動ドアのガラスが開き切るまでの数秒すら惜しくて、すり抜ける。
病院に行くというのになんて元気な病人なんだ。ほら、周りの人間だって、驚いて僕を見て……。

「え?」

病院の受付にきた僕は、立ちすくんだ。
走ってきた僕を見つめているのは、虫・虫・虫・虫……大量の、虫的な顔。

恐る恐る、受付スタッフのほうを見る。

「今日は、どうされました?」

マスクを着用したその下の顔は、僕が朝、鏡で見たあれと同じ。
虫的な顔、だった。


連想:虫、カフカ、現代人


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