偏見を超えて、もっと素敵な未来へ行こう!

津久井やまゆり園の事件から、まもなく3年が経つ。
あの事件は私にとっては、全く他人事ではない。私の姉には重度の知的障害があって、地域は違うが、やまゆり園と同じような施設で生活している。何か一つ違っていたら、殺されていたのは、私の姉だったのかもしれないのだ。

この事件の時にも色々考えさせられたし、最近も別な報道記事を読んで、気になったことがある。今のうちに書き留めておきたい。

偏見を助長するもの

あの時に私が感じたことの一つが、「いかにも起こりそうな事件だ」ということ。長年、障害者施設を人の少ない地域に建てて、健常者の日常から遠ざけてきた結果、こういう偏見が生まれるのは必然だったとも言える。

もちろん、犯人自身の精神状態に、多くの問題があったのだろう。でも、彼の偏見を助長するような環境が、今も日本にある、ということも否定できない。

さらに、被害者の家族の中に「被害者の氏名を公表しないでほしい」という人がいたのがショックだった。家族に障害者がいることが、なぜそんなに恥ずかしいのか、全くわからない。この家族の周囲には、まだそんな差別をしている人がいるのか...。

私の家族にとっては、障害者の姉がいることは非常に重要なことで、全く隠す必要はない。近所の人も、友達も、みんな知っていた。
姉が小さかった頃には、障害児を家に閉じ込めて、いわゆる「座敷牢」の状態にしている家庭もあったそうだ。私の親は一軒一軒を訪ねて話をし、障害児の親たちと手を繋いで、障害児を守る会を作った。当時は重い障害のある子は学校にも行けず(「就学猶予」という名目だったらしい)、家にいるか、施設に入所するかという選択しかなかった。

これはもう、60年ほど前の話だ。今の日本はどうだろう。60年前と、ほとんど変わっていないのではないだろうか...?
もういい加減に、差別したり、隠したりするの、やめようよ。

「きょうだい児」は結婚しちゃダメ?

今年に入ってから、NHKのサイトでこの記事を見つけてびっくりした。
障害児のきょうだい(「きょうだい児」と呼ばれているらしい。私も「きょうだい児」ということになる)は、結婚するときに大きな壁にぶつかるというのだ。

わたしと、結婚してくれますか

えっ、これ、いつの話? 今?

こんな差別は、昔からあることじゃないの?
今更、「こんなことがあります! びっくり!」みたいに報道されても困っちゃうんだけど。
そして、未だにこういう差別があることも、驚きなんだけど。

夫の両親は、私に障害のある姉がいるからといって結婚に反対したりはしなかったようだ。義母は若い頃、仕事で障害のある子どもの介護をしていたことがあったので、その経験もあって、理解があった。

もちろん、人によって事情は様々だろう。相手の家族に理解がない場合もあるだろう。遺伝的な病気の場合などは、もっと深刻な悩みを抱えることになるのだろうし、障害者と同居している人は、結婚後のそれぞれの生活をどうするか、大きな決断を迫られるだろう。
それに比べれば、私は楽な状況だったのかもしれない。でも、他の人たちも同じように差別に合わずにいてほしい。

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話を戻そう。

私は、NHKの作る番組に好きなものがたくさんあるけれど、上記の記事に関しては非常に疑問だ。今の時代にこういう報道をすることで、かえって「障害者のきょうだいは結婚しにくい」という先入観を助長しないかと心配している。「早めのカミングアウトが大切」(つまり、当事者本人の努力)ということしか解決の方向が示されていない。

さっきの「60年前と変わっていない」という話と同じなのだが、率直に言えば、
「えっ、まだそんなところにいるの? いい加減に、もっと前に進もうよ!」
という感じがするのだ。

今、実際に起きている問題を取り上げるのは、大切なことだ。でも、報道機関には、その現実を踏まえた上で、一歩先の未来を見据えた報道をしてほしい。
私は「障害者のきょうだいは結婚しにくい、自分の幸せを求めちゃダメ」なんて考えたこともない。私も私の兄も、それぞれに結婚して家庭を持ち、子どもがいる。
障害があってもなくても、もっと自由に、それぞれが幸せになれる道がある、それぞれが幸せになる生き方がある、ということを、「当たり前のこと」として報道機関にはたくさん示してほしい。差別や偏見に満ちた状況を再確認するのではなくて、もっと先の、望ましき未来があることを示してほしい。

言葉がなくても通じるものがある

やまゆり園の事件を起こした犯人が、この施設で働いていたにも関わらず「意思疎通ができない人は安楽死させるべき」と言ったのもショックだった。そこで働いていたのに、そんな風にしか思えないの? 言葉で言えなくたって、障害者にもやりたいことがあり、意思がある。そんなの、見ていたらわかるでしょ。それくらいのことが、どうして理解できなかったのか。

きっと、この犯人は、私が書いているようなことを周りから言われても、どうしても受け入れられなかったのだろう。自分の言うことが障害のある相手に伝わらなかったり、相手の行動を自分が理解できなかったりする不満の中で、介護の大変さ、疲れ、怒りなどを溜め込み、偏見をさらに強くしていったのかもしれない。

でも、障害者だって、意思疎通が全くできないわけではない。(もちろん、障害の程度にもよるが)

最初にも書いたように、私の姉には重度の知的障害がある。言葉はほとんど喋れない。でも、だからって感情がないわけじゃない。好きなものもある。やりたいことも、伝えたいこともある。それが言葉で言えないだけなのだ。

例えば、こんなことがあった。

姉は童謡を聞くのが大好きだった。両親がたくさん童謡を聞かせて育てたからだ。施設から家に帰省した時には、一日中カセットテープをかけてもらって、童謡を聞いていた。

姉が特に好きな歌の一つは「ぞうさん」だった。
姉の好きな童謡のカセットテープは2,3本あったけれど、姉は何度も聞いているので、だいたいの曲の順番は覚えていたのだろう。
カセットテープのうちの1本には、一曲目に「とんぼのめがね」二曲目に「ぞうさん」が入っていた。

このカセットテープをかけて、「とんぼのめがね」の歌が始まると、姉はもう「ぞうさん」の歌が出てくることを期待して、嬉しそうに、片方の腕を象の鼻のようにぶらんぶらんと振り始める。

  (次は、ぞうさんの歌だよ)

と思っていたのだろう。

私はそれを見て
「えーっ? ぞうさんじゃないよ? とんぼのめがねでしょう?」
と、わざと、とぼけて言ってみる。
姉は笑顔で、腕を振り続ける。

いよいよ、次に「ぞうさん」の歌がかかると、姉は大きな歓声をあげて喜ぶ。

  (ぞうさんだ!
   ほら、やっぱり、ぞうさんだったでしょ!)

「あ、ほんとだ! ぞうさんだったねえ!」
と、私も驚いてみせる。
このやり取りは、姉と私との間の、ちょっとした冗談のようなものだった。

私の姉は性格も素直だし、表現の仕方もわかりやすいから、何を言いたいのかがわかりやすいのかもしれない。
人によっては、こだわりがものすごく強かったり、意思の疎通がもっと難しかったりする場合もあるだろう。でもきっと、その人だって、何かの意思があって、それを表現しているはずなのだ...それが、言葉で表現されないから、わかりにくいだけで。


どんな障害があっても、なくても、幸せに生きる権利が守られる社会になってほしい。
こう書いている私自身の中にも、様々な偏見が根強く残っている。それも自覚して、折に触れて、自分自身に問い直していけるようにしなくては。

みんなで偏見や差別を超えて、もっと素敵な未来へ行こう。

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