PBL(Project/Problem Based Learning)(※未整理メモ)

PBLにおいて最も重要なこと

PBLで最も重要なのは、そもそもそれは取り組むに値する課題なのか、ということである。

元々、「これを勉強して何の役に立つのか」という学習者の疑問に応える形でPBLが始まったのだと思うが、単に目的ー手段関係を学ばせるのであればよいかもしれないが、そうでなければ結局「この課題に取り組んで、この問題を解決して、一体何の役に立つのか」というより深刻な事態を招くだけであろう。

ゆめゆめ、上司から与えられた、あるいはクライアントから示された「課題」なり「問題」なりに何の疑問も抱かずに盲目的に飛びつく人材を育成したいのではあるまい。

実はこの問題にはさらに悩ましい側面があるのだが、それはまた別の話。

PBLの評価

PBLの中には、以下の3つの活動が含まれる。

(1)学習のための活動
(2)プロジェクトの成果を上げるための活動
(3)評価者に情報提供するための活動

・一般に評価者は(1)のプロセスで生み出された情報を評価に活用すべきであると考えられる。つまり(3)は(1)に含まれるという考え方である。
・しかしまず、(1)と(2)は殆どの場合分離不可能である。そして、主として観測可能なのは(2)である。多くの場合我々は、(2)の中に(1)が内在すると仮定している。
・とはいえ実際には、(2)が必ずしも(評価情報としての十分条件を満たすほど)(1)を反映しているわけではない。
・それどころか、(1)と(2)は往々にして相矛盾する。(1)は「心理的安全」が保証された学習環境において失敗を含む試行錯誤を必要とするのに対し、(2)ではクライアントに対する責任が発生し、成果を上げることが要請される。
・さらには、(2)において仮に「学習」を観測できるとしても、それは殆どの場合「プロジェクトチーム」としての学習であり、そこからチームのメンバーである個々の学習者の学習を抽出することは極めて難しい。
・では、(3)を(1)(2)から独立させればよいかというと、そもそも目的にかなった(3)を設計、実施することは、理論的にも、実際的にも(教授者、学習者のキャパシティ上の制約から)困難である。

これらの課題を克服するためには、あらかじめ教授者と学習者が(3)の要件を共有し、学習者自身が、(2)において(1)を反省的に自覚し続け、かつ、(1)において(3)を反省的に自覚し、自らもまた評価者となって評価情報を生成し、最終的にそれを教授者と共有できるような活動全体を設計する必要がある。

かかる負担を学習者に求めうる条件は、このような多層的な「反省的自覚」が、(1)(2)(3)全てにとって有益かつ実現可能であることを示すことである。

「学習時間」の意味

通常の学校教育の枠組みでは、「学習時間は長ければ長いほど良い」ということが殆ど自明の理のようになっているが、PBLを本気でやろうとするなら「学習時間」は端的にコストであり、むしろ「短ければ短いほど良い」ということになる。この問題に踏み込む覚悟があるのかどうか。

少なくとも「履修主義」から「到達度主義」への転換を図るのであれば、これは必然的帰結であるはずである。

しかし実際には、教育者というコンテンツプロバイダーは、相手の持ち時間のうち、自分が教えたいと思う内容に関する「学習活動」が占める割合が高ければ高いほど嬉しいだ。これまで教育者は、相手の持ち時間において、他の活動との間で「時間シェア」を競ってきたのである。

「課題」の歴史

PBLというのは今に始まったことではなくて、明治時代から高度成長期あたりまで(そしてその「オーバーラン」としてのバブル期あたりまで)は一貫して、「日本の近代化、経済成長、先進国化」という課題を達成するためのPBLを国を挙げてずっとやってきたのだと思う。

これまではずっと、課題(問題というよりはゴール)も達成方法も、そしてその有力な手段の一つとしての教育も、外から与えられてきた。

「何のために学ぶのか?」といえば、答えは「貧困から抜け出し、豊かになるため、幸福になるため」だ。極めてシンプルだった。どの科目が、どの単元が社会に出てから役に立つかといったことや、同年齢一斉教育の弊害などは、「どうでもいい細かいこと」だったのだ。全ては「自明」だった。

それに対して今日においては、そもそも「課題」が何であるかが全くわからなくなってしまった。仮に「わかった」としても、価値観の多様化した成熟社会において、それは他人とろくに共有できないものに成り下がってしまった。

このような社会状況において、我々はそもそも課題なるものを曲がりなりにも設定しうるのか、そして課題達成の一つの手段として、一体何をどのように学ぶべきなのか、というところで途方に暮れているのだろう。

グループワーク

人はグループワークで「学ぶ」のか、それとも既に学習済の知識やスキルを「提供」するのか。「提供の仕方」を学ぶのか。「提供するに値することを自分は学習していた」という気付きがその後のさらなる学びを促進するのか。

別の話。

特定の時間において、あるメンバーが「黙っている」ことがチームが課題を達成するのに最も効果的である場合、そのメンバーのその時間における狭義の「アウトプット」はゼロになる。そのメンバーの課題達成への貢献をどう評価するか。

また別の話。

「休み時間のプロトコル」がそのまま授業でのグループワークに持ち込まれると、結局「休み時間のヒエラルキー」が授業においてさえ強化されるだけに過ぎない。フラットなチームビルディングのためのグループワークを目指すのならば、それにふさわしい新しいプロトコルを導入しなければならない。

人間関係に対する評価

だいたいこの社会において「個人の評価」などなされたことはなくて、ほとんどは「人間関係」に対する評価だったのではないか。そういう意味では、学校教育における「テスト」は「人間関係に対する評価」の沼から引っ張り上げてくれる命綱だった。

今進んでいる事態は、やはり「人間関係に対する評価」の沼が大事だからむしろそっちを尊重しよう、ということと、「テスト」でさえ人間関係が寄与する部分が大きくなってしまっている、ということである。

能力は「何に」帰属するのか

能力が個人に帰属するという考え方自体、再考しなければならないというのも事実であろう。

教育の平等性とは何か

日本の初等、中等教育には素晴らしい点がいくつもあるし、そのことによってこの社会の発展と豊かさと安定が支えられてきたのは事実であろう。

しかし、「国民全員に基礎的・基本的学力を保証する」と言いながら、実際に行われてきたのは「教師による生徒へのインプットの平等性」であり、生徒が学習において何を達成したか、という、アウトプットの差は(何とかしようという個々の教員の努力はもちろんあったものの、構造的に)放置されてきた。

さらに、その生徒が将来いかに自らの人生を豊かなものにしたか、いかに社会的価値を創出するようになったか、というアウトカムにおいては、そもそもまんべんなく個々の教科のテストで高得点を取る、といったこととはあまり関係ない。

インプットの平等は、むしろアウトプット、アウトカムの不平等を助長しかねない。

授業についていけない生徒にも「平等に同じ授業を受けさせる」ことは何を意味するか。授業を聞かなくともわかっている生徒や、その科目は苦手だがそれ以外の科目においてもっと学習すれば伸びる強みを持っている生徒に「平等に同じ授業を受けさせる」ことは何を意味するか。なぜ全員に、同じタイミングで、同じ時間数の授業をうけさせなければならないのか。

生徒を「平等に」尊重しようとするのであれば、むしろ個々の生徒に合わせて、適切なタイミング(年齢)で、適切な時間をかけて適切な方法で、適切な内容を学ばせるべきではないのか。

学力の違う生徒が同じタイミング(年齢)で同じ教室で同じ時間を過ごすことに意味がある、という主張がある。多様性を身をもって学び、協調性を身につけることができる、といった考え方である。

しかしそれならば、異なる年齢の生徒が(場合によっては大人も含めて)一緒に学んだほうがよほど効果的なのではないだろうか。全ての生徒が同じタイミング(年齢)で同じ教室で同じ授業時間を過ごすことが、かえって「それ以外の要因」による格差を拡大させているのが現状ではないだろうか。

同じタイミングで、同じ時間数、同じ教え方で、同じ内容。我々は、インプットの平等性にすべてを託してしまったことにより、アウトプットやアウトカムの平等性を視野の外に置くことに成功してしまった。

(※ここで言う「アウトプットやアウトカムの平等性」とは、機会の平等に対する(文字通りの)結果の平等を支持しているのではない。ただ、個々の生徒にもう少しマシな「結果」がもたらされるような、もう少しマシなやり方があるのではないか、ということである。)

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