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「能力の高い人々」の公共性


(2013年1月13日)

「能力の高い人々」は、同じ労働時間で他人より高い収入を得たり、他人と同じ仕事をより短い時間で成し遂げたりする。国家・共同体・組織は、それらの収入や時間の一部を回収して再分配し、構成員間の格差縮小に努める。

しかしこの「再分配機能」は、必ずしも信頼に足るものであるとは限らないし、効率が良いとも限らない。再分配の結果、我々一般市民が十分な恩恵を得られる保証は無い。

一般に、高い労働生産性を発揮する人々は、自分の財産や時間の投資においてもその能力を発揮する可能性が-あくまで可能性だが-ある。そうであるならば、その「投資」が公益に資する結果をもたらしたときに適切に「評価」することによって、彼ら彼女らを公共的な振る舞いに向けて動機づけることが、有効ではないだろうか。

同様に、能力の高い人々は、労働そのものを通じても、社会的に大きな影響力を持つ可能性が高い。そうであるならば、その「労働」が公益に資する結果をもたらしたときに適切に「評価」することによって、彼ら彼女らを公共的な振る舞いに向けて動機づけることが、有効ではないだろうか。

能力の高い人々が、高い収入を得たり、他人と同じ仕事をより短い時間で成し遂げたりすることは、羨望の対象となりがちである。しかし、「結果の平等」を求めて彼ら彼女からそれらをひたすら削り取ろうとしてもうまくいくだろうか。結局そういった人々が価値生産の動機を失ったり、自ら生み出した価値を(批判にさらされないために)隠匿したり、公共性に関心を払う回路を見いだし得なかったりすることが多くなり、その他大勢の我々一般市民にとって、得るものはそれほど多くないのかもしれない。

もちろん、機会の平等を実現するための国家・共同体・組織による再分配機能は必要である。しかし、そのような再分配機能の「質」を常に問い続けるためにこそ、それと競合する選択肢として、能力の高い人々自身によって直接実現される公共性の可能性について、十分に考えてみる必要があるのではないだろうか。

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