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失くすこと

14才のときに入院した。ほとんど1ヶ月いた。
頭を打った。意識をなくして運ばれた。わたしは覚えていない。そう聞いた。

ふたたび目を覚ますのは2時間以上あとだった。

この本の冒頭で挙げられる、モンテーニュとルソーの目覚めに関する挿話は、ほとんどそのままわたしの体験になる。

モンテーニュは散歩中、乗っていた馬から放り出され、地面に頭を打ち付ける。気絶は2時間に及び、その後、彼はようやくうっすらと目を開けた。その時のことだ。

私は自分がどこから来たのか、どこへ行くのかわからなかったし、人にたずねられたことを判断したり考えたりすることもできなかった。(…)その間、私の気分は本当に、きわめておだやかで静かだった。他人のためにも、自分のためにも、悲しくなかった。けだるさと極度の衰弱があるだけで、苦痛は少しもなかった。自分の屋敷を見てもそれとわからなかった。寝かされたとき、その休息に限りない快さを感じた。(…)私は、自分の命がもはや唇の先に引っかかっているかにすぎないように思って、この命を外に押しだすのを手伝うかのように、じっと目を閉じながら、ぐったりと力が抜けて、そのまま消え入る自分に、快感を味わっていた。

『孤独な散歩者の夢想』のルソーにおいても、事情はそこまで変わらない。気絶した後におとずれた目覚めを、彼はこう書き付ける。

夜は更けていた。空と、いくつかの星と、少しばかりの緑が目に入った。この最初の感覚は、甘美な瞬間だった。この感覚によってしか、わたしはいまだ自分がわからなかった。この瞬間に、わたしは生まれようとしていたのだ。そして、自分のかすかな存在によって、自分の目に映るあらゆるものを満たしつつあるように思えた。その瞬間は、まったく何の記憶もなかった。自分というものの明確な概念もなかったし、自分の身に何が起こったのかという意識もなかった。自分がだれなのかも、どこにいるかも知らなかった。痛みも感じなければ、恐れも不安も覚えなかった。自分の血が流れるのを、まるで小川でも流れるのを見るようにして見ていて、それが自分のものだとは考えもしなかった。わたしは全身のうちにうっとりするような静けさを感じていた。その後、それをいつ思い出しても、今まで経験した快楽のどんな活発な動きのなかにさえ、比べるもののないような心地よい静けさだった。

わたしのばあいも、事情はそれほど変わらなかった。
右のこめかみを打ってわたしは倒れる。声がでなかった。目も開かず、気がついたときには運ばれているような心地になるが、意識はとぎれた。背負ってくれたひとは、わたしが時々重くなったことを印象的に話した。病院につくころには、わたしは何の返事もしなくなる。

気をうしなっているときも触覚はもっとも残りやすい。ときどき抱きしめられたり、針を刺されると感じた。仰向けにされているのもわかった。目はどうしても開かないが、耳はきこえた。ただ、きこえるものはどれも単なる音にしかならず、意味を結ばない。音がいったい何なのか、はっきりしない。ちょうど、半醒半睡の状態で聴く目覚ましのアラームが、〈わたしを覚ますため〉に鳴っているとわからないように。医師たちはわたしを安心させようと声をかけた、わたしはその意味にたどり着くことができずひとりで混乱した。どこにいるのかも失っていた。刺された針や点滴を引き抜いた。うめいたりした。

ふと、だれにも触れたり声をかけたりすることのできないような淵の暗さをうしろに感じた。〈此処〉との接点が順にうしなわれていくと〈あっちへいく〉という重力のように透明な意志がはたらく。そのシンプルな暗さとは黒でも白でもある、明るかった気もした。軽くなりながら、頭のうしろにたおれていきたい。意思はない。

医師はわたしを名字で呼んでいたはずだ、わからなかった。名前で呼ばれたとき、はじめて「あ、それ」と思い出せた。それだった。
ということは、わたしは病院にいるんだね、ということがはじめて了解されたのもそのときだった。もう暗いような感じもなかった。

あそこで名前を呼んだのは俺だった、と父からきいた。でも、それは本当にどうでもいいことだ。あそこで名前を呼ばれるなら、誰であってもわたしはそれを親とできる。だってあのとき、お前がすこしずつちがう人みたいになっていくように見えたから。それ、を名付けるより、刷り込むより、呼ぶことはありがたい。どこにいってしまうんやろうと思って声かけたんやよ、なんでやったかな、母さんはもうとなりで呆然としとって。父が話した。あの時、それまで何してもだめやったんが、父さんが名前呼んだらきゅうに落ちついたようになって、はじめて、ちょっと安心したんやよ、母はもうそれが懐かしいことのように話した。わたしは名前で連れもどされた。

その名前をよばれてから2時間以上、わたしは何をしても反応しなくなる。昏睡になった。危ういような感じはなかった。これは眠っていただけにみえる。たまたま、それが覚めなかったようにみえる。

こののちに訪れる目覚めについて、わたしはその記述を冒頭に挙げたモンテーニュとルソーにゆだねたい。それはほとんど、わたしの体験になった。
ただ思いだすわたしには、目を開けた時そこにある光が、午後の光なのか、まなざしの光なのか、区別がつかない。覚めたという意識もはっきりせず、見えるものは真っすぐわたしの光になった。不思議に、見なれない場所で目を覚ましたひとがふつう抱くような〈ここはどこか〉という意識ははたらかなかった。そして、だれでもよかった。目を開いた場所にみえるものが、わたしを含めたすべてになっていった。水に塩が溶けるようにそのまなざしは光のなかに失われる。どちらが光ともなくみえる。
それらの瞬間とは、わたしの記憶ではない。

汝は、汝が天使であった時を思いだすか? わたしは覚えている、キリストなき天使であったことを。

ポール・ヴァレリー『カイエ』

いま、わたしとはそれを思いだすだけだ。

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