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かみなりと確率

2018年8月29日の夜
かみなりが聞こえて、すぐ外にでなければいけないと感じた。家には天井があって、空が見えなかった。

そういう時に傘さして出歩いたらあかんよ、雷に打たれるもん。と聞いたことがある。だから傘をさしてはだしで出た。遊んでみたかった。かみなりを見たいという気持ちもあったけれど、かみなりに打たれることのほうに興味があった。

家から5分ほど歩いたところでかみなりの音と光がほとんど一致して、かみなり雲が頭のうえにくる。
そばの公園にはいった。わたしの前、後ろ、頭のうえ。〈落ちる〉イメージを持続して、木のそばを歩く。

光ってちかくに落ちる。此処じゃない、どこか。

公園でいちばん高い木を選んで、その下に入った。雲は近かった。空を見上げたらほとんど数秒おきに光って音が鳴る。この木を狙うだろうか。落ちるだろうか。不安はない。ただ、どちらか。

いちばんかみなりが近かったとき、光は音が鳴った後にようやく光るように見えた。眼で見るとおくれる。

不思議と、生命に対する特別な感覚はなかった。どのかみなりがわたしに落ちてもおかしくなかった。いつでも死ぬ場所にいた。
でも、感じていたのは生きていることや死ぬことの切実な感情ではなく、もっと無機質な〈場所〉のことだった。

どこかにあって、動いている。在る。〈起こること〉は場所が引き受けている気がした。わたしはその場所へいけない。でも、持っている。そこを感じている。場所はもう全て持っていて、わたしはその場所を真に受けたり誤魔化したりしながら、ただ場所を映している。

場所は手相ににていた。それは単なる場所であって領域であって、わたしは直接には関われないが、持っている。
たとえば、感じるということは、わたしが感じるということとはどこか違うように思ってきた。感じることが〈起こる〉のはその場所で、わたしという仕組みはただそれを歪ませて反映していた。それに、普段のわたしは場所に嘘をつける。〈起こったこと〉もわたしは無視できる。場所には起こり続けている。

かみなりは当たるかどうか。〈場所〉のことに思える。
ただ、かみなりが場所に落ちたら、〈わたし〉はそれを無視できない。わたしは選べる感覚ではなくなっている。ただ落ちる。死ぬ。遊びの原理はとても単純で、単純なほどうれしい。

これは人には伝わらなかった。それは場所であって、そこではわたしが生きていることとか、わたしの人生とか、そういうことは関係ない。ただ場所は場所で動いている。場所は起こらせる。それは感じないか感じるかだけで、誰でも場所を持っている。

かみなりが落ちる。わたしには当たらない。落ちるのは場所に落ちる。偶然や必然という考え方をしない。ただ、わたしは間違うことが多くても、その場所を持っていて、其処だけは確信している。場所にはなんでも起こり得る。

わたしという考え方はたぶん、場所に向いていない。

場所はただ在る。起こる。揺れる。光る。場所はもうなにも選ばない。既に、在る。起こる。

帰って、かみなりに打たれる確率を調べると、1/10,000,000と出た。

〈場所〉を引き受けられたら、わたし、とはもういわない。

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