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田村玲子の最期

アニメ版『寄生獣』18話、田村玲子の最期だったんですが。泣いたなー。

あのシーン、「母の子に対する愛とかお涙頂戴な話」的に言う人もいて、まあ、そうとも言えるのだけど、かなりひねった形でそれを表現していて、そこが『寄生獣』らしいところだと思う。

田村が命を賭けて「子供」を守ったあのシーンは、ストレートには母性愛云々というよりは、命を賭けた真理の探究として表現されている。寄生生物(あるいは生物一般)の生存本能と、自分の中に芽生えた「子供」に対する「情」のどちらが勝つのか、という。

「子供」は自分とは違う種で本当の子ではなく、むしろ飼育していたペットに近い存在で、そこで芽生えた感情もやはり括弧付きの「母性」なのだが、だからこそ田村が以前大学で受けた講義にあった「種を越えた利他的行為」とか「利己的遺伝子に基づく子殺し」といったテーマに繋がってくる。

田村の中では「われわれ(寄生生物)と人間は一つの家族」という結論は既に出ていた。それを告げるために新一を呼び出し、あのシーンの直前にそう告げたのだが、新一は納得しなかった。しかし、家族を寄生生物に殺された新一としては感情的に受け入れられない結論だ。

では、その後の田村の行動は、寄生生物が人間の子供を守る、という「一つの家族」を印象付けるための決死のパフォーマンスだったのだろうか。そういう面もあったかもしれない。しかし最期の「それでも今日、また一つ疑問の答えが出た」「この子供、結局使わなかった」という田村の言葉からは、また別の印象を受ける。

田村自身も「一つの家族」という結論について、論理を越えた思い入れは、おそらく倉森に「子供」を殺されそうになったあの時まではなかったか、あったとしてもはっきりと意識はしていなかったのだろう。実際、田村自身がその時に生じた自分の感情と行動に驚いている。

そこで新たな疑問が田村の中に生まれたのではないか。「一つの家族」というのはどういうことなのか、自分と「子供」の関係を通じて「心」の底から納得できる答えを最後の瞬間まで探し求めていたのだろう。

この物語では確かに母性が提示されてはいるが、それは括弧に入れた「母性」なのではないか。田村玲子が「母」と「子」の関係の中に命を賭けて探し求めたもの。それは単純に「真理の探究」とも「人間の心(母の愛)」とも言えない複雑に絡まった何かだ。

新一は、田村の行動に人間らしい共感能力で感情を揺さぶられ、憎しみや怒りで固くフタをしていた心から、母の死に対する哀しみ、悼みの感情があふれ出し、涙を取り戻す。しかし、この時点ではまだ田村の選択の複雑さを受け止めきれてない。ミギーもまた。

初期のミギーや田村玲子(田宮良子)の描写からもわかるように、知的探求心と合理主義は相性がいい。そして合理主義は時として血も涙もない非情さと結びつけられて理解される。実際、二人の描写の中では高い知性と冷血さは違和感なく同居している。

「子供」を産んでからの田村玲子の描写にも、母性的な感情の芽生えを感じさせるものはほぼない。「子供」について「おまえは不思議だ」とつぶやくシーンがあるが、気持ちは「われわれはなぜ生まれてきた?」といういつもの疑問に向かう。登場時から一貫して見られる、種としての自分たちの存在の意味、そして生存の道への探求心だ。

田村自身はそれを「人間っぽく」考えることだと言っている。田村にとっての「人間らしさ」とは、なによりも個体の生存という目的を越えた過剰な知的探求心のことだった。

「われわれ(寄生生物)と人間は一つの家族」「われわれは人間の子供だ」という結論は、「飼育」していた「子供」から着想を得たのだろう。寄生生物としての自分を「か弱い、それのみでは生きていけないただの生命体」としての人間の子供に重ね合わせることで。

ここまでは論理で導かれた結論で「情」も「母性」も必要ない。むしろその結論を得て、田村はその結論を行動原理として生きようとし、そこから「情」が生まれたのではないか。考えることで認識が変わり、認識が変わることで心が変わる。

「この前人間の真似をして鏡の前で大声で笑ってみた。なかなか、気分がよかったぞ。」

これが田村の最後の言葉となった。新一には知るよしもないが、狼狽する倉森を思い出して笑ったあのシーンだ。それは田村にとって意図せずこみ上げてきた初めての笑いで、田村自身はどうやらこの体験を人間的な感情の芽生えとして認識していたことが読み取れる。

しかしあのシーンは、人間から見ればどう見ても不気味な笑いとして描かれている。赤子が泣き出すほどの。倉森の姿に対して無邪気に可笑しみを感じられたのも、田村に倉森への共感が欠如していたからこそだ。それでも、田村にとっては、考えるより先に感情が動くという体験は新鮮なもので、象徴的な出来事だったのだろう。

寄生生物と人間との間の噛み合わなさ。しかしそれでも、田村は考え抜くことで、新一は感じることで、互いに何かが通じ合うものがあった。それは勘違いかもしれない。しかし、そんな勘違いが新一を救い、田村に安らかな最期をもたらした。

思えば人間同士のコミュニケーションは、そういった勘違いの連続なのではないか。「母性」だってそうだ。そしてほとんどの場合、そんな勘違いが起きていることにすら気付いていないのではないか。

しかし、ある種の人間は、周囲の人間とのコミュニケーションの噛み合わなさに気付いてしまう、あるいは気付かせてしまう、そういう不器用さを身につけてしまっている。生まれついてなのか、そのように育つ理由があったのか、色々だろうけれど。

その種の人間にとっては、田村の生き様は他人事ではない。自分は人間らしさが欠落した欠陥品なのではないか。しかし周りの人間がそれほど「人間らしい」と言えるのか。人間として生きるという事の意味について、自分もみんなも、何かを見落としているのではないか。劇中の田村の意図とは別に、田村が探し求める答えに自分が求めている何かがあるのではないか、という思いを抱いてしまう。

考え抜くことで「人間らしさ」を獲得すること、それはみんなのそれとは違う、やっぱりどこか噛み合わないままの「作りもの」なのかもしれないけれど、それでも何かが通じると信じていい、そのぎこちなさを肯定していい。田村の最期の描かれ方からは、そういうメッセージを感じるのだ。

それもまた勘違いなのかもしれない。でも、それでもいい。そう思う。

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