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この画家を知れた喜び~平塚市美術館「物語る 遠藤彰子展」

同時代にこんなスケールの大きな日本人作家がいたとは。
ほんとに「オラ、わくわくすっぞ!」である。
なんのこっちゃ。。

遠藤彰子という画家をご存じだろうか。

ご本人のサイト、とても親切で過去の作品を多くアーカイブして下さっている。これはこれで眼福なのだが、彼女の作品はこれだけでは足りない。
最大1500号!という巨大な作品を目の前にして、文字通り平衡感覚が揺らぐ体験をしてこそなのだ。

決して抽象画ではないが、現実と夢、生と死、静と動、といった相反するものを同じ画面に表現することで、観ているものの”当たり前”の感性を揺るがせにかかってくる。それはエッシャーのような騙し絵のような表現技術から始まり、キリコのような叙事詩のようなモチーフを経て、近年は描くことへの渇望ゆえにその作品の大きさの巨大化は留まるところを知らない。だがそれは決して夢想に終わるのではなく、一人ひとりの日常の大切さも置き去りにはしていない。

「私の街」(1982年)
街を鳥瞰する構図だが、そこに展開される街は非ユークリッド幾何学の世界!縦横に張り巡らされる階段で、住まう人の感情の起伏を表しているとのこと。人は多く描かれているが、他の人物と血の通ったつながりが感じられず皆無表情なのだ。誰とも繋がれず孤独を抱えずにおれないが、それでも歪な社会で生きていかなければならない、弱さとそれを”神の視点”から愛おしく見つめるまなざしがひしひしと伝わってくる。

「炎樹」(2017年)
作家の言葉では、プロメテウスの火とそれがもたらされた人間の行く末を思って描いたという。この炎の描き方がとても生々しいのだ。爆ぜる音が聞こえてくるような荒々しい炎。御舟の炎とはまた違った印象。少女が遠くの日の出を見つめているが、同時に希望も見出しているのか。

今年一番と言っていいくらいの衝撃度。
とある美術館のポスターで本展を知ったのだが、それを見落とさなくて本当によかったと思う。
都心からは少し遠いが、足を伸ばす価値十分にある展覧会であった。

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