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空撮:土木:鉄道:堤(つつみ)を築く

今年(2022年)は日本最初の鉄道が開業してから150年の節目の年に当たるが、鉄道の歴史150年とは、すなわち堤(つつみ)を築いてきた150年ではなかったか、などと思ったりする。
これまで撮影してきた鉄道の築堤を年代順に並べてみることで、なにか変遷的なことが見えてこないかな。

信越本線・上碓氷川橋梁アプローチ部

1885年(明治18年)
明治初期、東京と京都・大阪を結ぶ鉄道は、現在の東海道本線のルートではなく、中山道に沿ったルートで建設することが決められた。その方針に従って着々と工事が進められたのが現在のJR信越本線・しなの鉄道の線路であった。
中山道は、そもそもが本州の内陸部を通る山岳ルートなのだが、東京から西へ向かって行くと(中山道に沿うので、正確には、一旦高崎まで北上してから西へ向かうのだが)最初に立ちはだかるのが碓氷峠である。

碓氷峠に向けて鉄路は徐々に高度を上げていく。すると、台地を碓氷川が穿入しながら流れていて、広く深い谷を刻んでいる。その谷を越えるために築かれたのが、この大築堤である。

ここは築堤の土木量もすごいが、その築き方も巧みである。川が蛇行する内側の部分、つまり水流が直撃しない部分に築いている。そうして、建設当時、まだ国内で鋼鉄を製造できず海外からの輸入に頼っていた貴重な鉄橋を、できるだけ短くするようにしている。今日の土木技術だとコンクリート製の連続桁橋で一気に渡してしまうところだが、100年以上前の技術者の苦心が伝わってくる。

信越本線(現・しなの鉄道)

1888年(明治21年)
浅間山山麓の緩斜面を侵食して深い谷が横切っている。そこに橋を架けるのではなく、盛土をして築堤を築いている(沢は水抜き用のトンネルを設けて通している)

長崎本線(旧線、長与経由)

1898年(明治31年)
大村湾沿岸、海中に土手を築いて(築堤して)線路を通している。湾の奥に線路を敷くと遠回りなうえに曲線が厳しくなるから、確かにこうしたくなるのだが、それにしても思い切ったルーティングをしたものだ。

入り江の入口(海中もしくは湿地)に土手を築いて線路を通すルーティングは、長崎本線、特に大村湾沿いや多良岳山麓の有明海沿いによく見られる。建設当時の九州鉄道のカルチャーと言ってもいいくらいだ。喜々津駅~東園駅のここ(長崎県諫早市多良見町)も、その一つ。
こちらはドローンではなく、丘の上から撮影。

中央本線・旧立場川橋梁アプローチ部

1904年(明治37年)
旧立場川橋梁はそれ自体がボルチモアトラスと呼ばれる珍しい形式の橋梁として注目を集めるが、そのアプローチ部には橋梁の2倍の長さの築堤が築かれている。
築堤が築かれているのは立場川右岸の河岸段丘になっている場所で、多少の洪水でも水が来る心配のない所である。上碓氷川橋梁で見られたような築堤の場所選びの知恵がここでも見られる。

八ヶ岳南山麓の緩斜面は、地形的に浅間山の山麓と類似していて、台地に何本もの川が深く広い谷を刻んでいる。立場川は橋梁を架けているが、周囲の川は、信越本線と同じように築堤だけで越えているのもある。

高山本線・第一神通川橋梁アプローチ部

1929年(昭和4年)
神通川右岸の大築堤が見事。長さ570m、高位の段丘面との比高20mを克服するためのスロープ(斜路)となっている。

信楽線(現・信楽高原鉄道)

1933年(昭和8年)
杣川を渡った後、山裾に取り付くまて築堤が一直線に伸びる。全線14.7kmのうち、この区間を含む貴生川駅と紫香楽宮跡駅の間が9.6kmもあり、信楽に向けての山登りの大変さがわかる。

住友大阪セメント田村工場専用線跡

1963年(昭和38年)
磐越東線・大越駅から出ていた専用線で、今は廃線になっているけど磐越東線に並行して立派な築堤が残っている。

磐越東線と並走する専用線の築堤跡。磐越東線の方は1915年(大正4年)の開通で、昭和38年のセメント工場稼働に合わせて建設された専用線とは年代も土木技術も大きく異なっている。

北越急行ほくほく線

1997年(平成9年)
大築堤!大カーブ!土盛りの関越自動車道が交差部分だけ地平に降りてきている(そのあおりで関越道と交差する農道が地下に潜ってる)。ほくほく線が跨いでいる形だけど、設計上は関越道の方が後から入ってきたのかな。

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