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Vtuberという非実在な存在と、それを消費する僕ら

Question: Vtuberの何に惹かれて見続けているのか?

 Vtuberをする側のことはたまに語られるし、「なりたい自分になれる」など自己実現のための存在として目新しさをもって語られることも多い。

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(realityの僕のアバター。簡単にVtuberになることは可能になったが、見る側としての魅力は?)

 が、自分はVtuberを見る側、消費する側なので、Vtuber好きの人間(自分)は何を求めてVtuberを見続けるのかを語っておきたい。

Vtuberとは

 そもそもVtuberとはなんなのか。

 Vtuberが現れてから様々なVtuberたちの活動の模索の結果あきらかになってきた事実として、どうやらVtuberというのは、人間がキャラクターとして活動するために、各種の媒体と接続するための層でしかない。ソフトウェア的に言えば、それぞれのデバイスを紐づけるためのプロトコル、または、フレームワークの違う層の間に存在する抽象化層。

 当初生まれた媒体からVRや3Dと関係するものと分類されがちだが、それはもやは時代遅れの認識であり、Vtuberにとっては活動の1分野でしなかい。とは言え、Vtuberが一番自由に活動し、可能性が輝くのはその媒体ではある。Vtuberと言うあまりにも自由な存在達が、全開で動くには現実世界ままだまだ制約が多い。

 もやは、Vtuberというのは共通認識の上に成り立つ一種の規格でしかなく、VRやLive2dなどはその実装の一形態でしかないということ。

 Vtuberが現れてからまだ数年だが、Vtuberという存在は、様々な要素や文脈を取り込んで変化している。そして、何より重要と思うのは、Vtuberがアニメや漫画が盛んな日本の、オタク的文脈を色濃く持っているということだ。それがVtuberの全てではないし、そこから逸脱した存在も多い。が、少なくとも、自分にとって、まずVtuberという存在の魅力は、その内包する物語性とキャラクター性と、Vtuberが我々と同一の世界、同一の時間軸に”在る”ということが重要なのだ。

Vtuberの持つ物語性と、キャラクター性

 本来、物語の中だけに存在するキャラクターたち。

 Vtuberは、そう言ったキャラクターたとち同じような設定を持ちつつ、中身(魂)は人間という状態にある。魂が人間であることは問題ではない。むしろ、魂が人間だからこそ、Vtuberはこの世に降臨できたと言えるし、それゆえに人間のようなリアルさを持ちつつ、キャラクターとしてのペルソナも持ち得るという、メタ的な存在になり得ている。ただ、それがデジタルの世界に当初生まれたというだけの話にすぎない。実際には、彼らはデジタルという閉じられた世界に閉じ込められているわけではなく、リアルイベント(FAVRICや、Vtuberのライブ、京都やよみうりランドでのイベント、等々)にも活躍の場を増やしている。

 イメージとしては着ぐるみに近いのかもしれない。このことについては、MonsterZ Mateのコーサカはインタビューで「例えるなら、武藤敬司とグレート・ムタの関係」と語っている。バ美肉おじさんとして有名な魔王マグロナちゃんもかつて動画(どの動画だったか忘れてしまったが)で、仮面のようなもの(そしてそれを自分から取って夢を壊すことはしないとも)と語っていたと思う。

 普通のアニメや漫画などであれば、中の人であるところの声優たちが、明確に名前を出して、別人格であるのは当然のことだ。あくまで声優はアクターである。それに対してVtuberというのは「役」というよりは「ペルソナ」だ。演じている部分もありつつ、基本的にはそれは同一人格(魂、と呼ばれたりする)として扱われ、Vtuberである間は、少なくとも表面上はVtuberとしてのキャラクターや設定が主であるような見せ方をする。だからこそ、基本的にはVtuberの中の人については明かされない。例外はあって結果としてバレてしまったり、テレビで出てしまったりってことはあるし、MonsterZMateのようにそもそも公式として正体を明かしていることある。が、そう言った人たちでも、キャラクターとしての名前が出るときにはあえて「〇〇役の〇〇です」みたいなことを言うことはない。あくまで別の場所で語ったりする程度だろう。(ちなみに前述のMonsterZ Materのコーサカはインタビューの中で、自分の正体について語っているし隠してはいない)

(バ美肉おじさんたちを「まぐまりてぇてぇ」と素直に楽しめるのも、このガワのキャラクター性を受け入れてこそなのだ。てぇてぇ)

 だが、それはそれとして、キャラクターたちの存在は、キャラクターたちのままであってほしいという欲求もある。物語を醒めることなく見続けていたい…といってもいいかもしれない。どちらがいいと言うことでも無く、両方見てみたいのだ。消費者は欲張りである。

 そう言う欲求に対して、キャラクターとしての存在しか表向きは明かさないVtuberたちは、まさに望んでいたキャラクターのあり方の一つといっていい。その個性が人間そのものであることは、別に問題ではない。僕がそれを楽しむために必要な記号、約束事、それはキャラクターとしてのガワであり、フィルターとしてのキャラ設定と言う情報だ。

膨大な情報量のキャラクターたちの日常

 彼らが存在することを、今までのキャラクター達よりも強い存在感を作り出している。それは見る側からすると、キャラクターとして発信される情報量の多さがまずあるからだと思う。そう、彼ら彼女らが日々提供する長時間の「日常的な」生放送だ。

 コンテンツの情報量といえば、たとえばゲームやアニメなどでは、シナリオの長さ、設定量の多さ、などであろう。だが長い物語を描こうとすれば制作費という天井が存在する(例外もあるだろうが)。ゆえに、普通のコンテンツには日常的に提供できる情報量には限界がある(もちろん長さだけが全てではないが)。

 だが多くのVtuberの配信時間はそれを軽く超える。もちろんそれは、物語として比べれば、語弊はあるが、薄い。劇的な物語というよりは、日常シーンが延々と続くようなものかもしれない。どちらがいい悪い、上だ、下だ、という話ではない。キャラクターの喋り方、自分語り、他のVtuberとの会話や、遊んでいる様子…キャラクターたちの日常に詰まった細かい情報量と、その長さ(一日3〜4時間ゲーム配信をするVtuberなどざらにいるのだ。しかもほぼ毎日)。生の配信だからこその、生の情報量は、そこにキャラクターがいるということを錯覚(実際のところ人間がいるわけだから錯覚でもない)させるほどだ。

(「楓と美兎 ~休日編~」は朝起きてから寝るまでの二人の生活をひたすら配信。生の生活音も含め、その情報量に圧倒された)

 これだけの長時間となると、演じ続けることは難しい。演じている部分もあるだろうが、素の人間としての個性が出ている部分も多い。人によってはほぼそのままということもあるだろう。従来のコンテンツの情報とは質は違うものの、その圧倒的な情報量は、存在感に直結する。

 もちろんライバーたちが演じているキャラクターたちは現実には存在しない(というより、どんな物語のキャラクターたち、小説、神話、歴史上の人物なども、同時代同一世界に存在した試しなど一度もない)ことは理解している。

 だが、僕は、キャラクターが存在していなくとも、キャラクターの存在感を消費することで自覚的にキャラクターたちへの感情があるものと錯覚させることで自己の楽しみを得る。僕はただの傍観者、観測者、もっと有り体にえば消費者だ。

 そんな僕にとって、錯覚するほどの存在感(情報の共有)を持ったキャラクターたちは、魅力的で、尽きることのない消費の源泉になる。

 ※あえて消費といった露悪的な言葉を使うのは、消費しかできない自分に対する多少の自虐と、Vtuberのその奥にいる実在する人としての彼らを、キャラクターと同列に消費していいのか?という罪悪感に対する後ろめたさと思って許して欲しい(そうでもしないと、こんな大げさな文章を恥ずかしくてかけない、不確かな自我しかないのである)。

Vtuberが作り出す新たなキャラクターのあり方とは

 僕はキャラクターたちの織りなす物語や日常が大好きだ。

 自分の好きなキャラクターたちが生きる世界を観ていると幸せな気持ちになれる。この世のストレスから、一時的にだが解放される。彼らが幸せに生きる世界が存在する、と思えると温かい気持ちになれるのだ。

 だが、悲しい哉、物語には終わりが来る。キャラクターたちは生きて(いないことも、ある、が)世界は続いていく…そう思えたとしても、それを見ることができないのは悲しい。悲しいから、妄想に花を開かせ、二次創作などで心を満たしたりするわけだ。少なくとも自分はそうだ。自分の好きなキャラクターたちが、たとえ物語が終わっても自分の心の中では生き続けると信じたいし、信じることは可能だ。いや、物語が終わってないとしても、もっとその世界を見たいのだ。それが物語られない場面でさえ、僕は見たい。物語られる劇的なシーンだけでなく、その日常も見てみたい。その貪欲な心には際限はないのだが、僕らがみられる物語は彼らの生きる日常の一部でしかない。物語の中の世界の部屋の壁になりたい、天井になりたいなどという願望は、決して嘘ではないのだ。

 Vtuberという存在が、僕に見せてくれるのは、まさにそういうキャラクターたちの日常だ。

 そして、たとえVtuberという存在が終わっても、彼ら彼女らの魂は、僕らと同じ世界、同じ時間で生きているという事実だ。

 そう、Vtuberはいつか卒業する。卒業しないVtuberというのもいつかは現れるかもしれないがそれを証明する手段はない。彼ら彼女らはいつかはいなくなるし、実際、僕は好きなVtuberの卒業を何度も見届けている。蒼月エリが卒業し、彼女の夜中の弾き語りが聞けなくなるのは、とても悲しかった。ゲーム部の皆がわちゃわちゃやっているのが見られなくなると知った時、気持ちが沈んでなかなか寝付けなかった。

 だが、僕がVtuberに感じる希望と救いの1つはそこにある。Vtuberとしての彼ら彼女らはいなくなるかもしれない。彼ら彼女らの日常を見ることはもう叶わないのかもしれない。今までの、物語の終わりと同じ。

 それでもその魂たちが僕らと同じ世界線に確かに生き続ける…そういう事実に、僕はとても救われる。たとえVtuberとしての生が終わっても、どこかで歌って笑っている彼らの存在に温かい思いをいだける。頑張ってとエールを送ることができるのだ。

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たとえいなくなってもその魂はこの世界のどこかにいる)

 もちろん、アニメや漫画のキャラクターたちにそう思わないということではない。だが、それでもVtuberというものがもつ確かな存在感(実際存在しているのだ)が僕にそう思わせる。

 だったら、普通のタレントでもいいではないかと思うかもしれない。タレントが好きな人からすればそうだろう。自分も別にタレントが嫌いなわけでも、好きなタレントがいないわけでもない。だが、僕の中ではそれは比べるようなものではない。

 ”確かな存在感を持った物語の中のキャラクターのような存在たちが、僕らと同じ世界に生きて、日常生活を営んでいる”という思いは、今まで得られなかったものだ。

 ”僕らと同じ日常を営み、確かな魂を持った「物語の主人公」たち”、それを信じる(もちろん自覚的な錯覚である)ことができることが、僕にとっては重要なのだ。

等身大のタレントであり、繋がれるキャラクターたち

 11/26の”おっさんV居酒屋(日本酒)”でそれぞれの参加者が視聴者の「Vtuberになったきっかけは?」という質問に対して、それぞれの活動開始のきっかけを語った。、要約すると多くの参加者が「Vtuberの活動を見て、面白そうだったから自分も初めて見た」ということ。初期のVtuberたちはともかくとして、にじさんじやホロライブなどでも二期生以降は初期Vtuberたちの活動のフォロワーであり、今の視聴者と、少なくともスタートはそれほどの違いはなかった。

 また、Vtuber配信のできるREALITYなどの配信者を見てもわかるのだが、昨今Vtuberを始めている人たちの多くはVtuberのフォロワーであり、かつ、好きだったVtuberとそれほど年齢の差もない。舞元やベルモントといったVtuberの中でも”おっさん”とされる層でさえ、おそらく行っていても30台、もしかしたら20台ではなかろうか(未確認なので単なる憶測である)。

 樋口楓さんも、活動開始当初は親に駅に送ってもらって東京と行き来するなど、Vtuberを見ている中高生などと変わらない存在であることは放送で話していた。本間ひまわりさんも

 Vtuberに限らない話だが、昨今、タレントたちとはSNSなどでもすぐに繋がれる。Vtuberは特に生放送などでもコメントとコメント返しなどでやりとりも多く、話題も近いこともあり、みじかな存在を見守っているような感覚さえある。

 人間的に、とても近しい、好きになりやすい存在である彼らは、何者のにもなれないオタクである僕からすれば、自分の身内から出た輝く存在であるかのように誇らしく、応援したくなる存在なのだ。

にじさんにに応募して落ちたというマシュマロに対して、自分もにじさんじに落ちた経験を話して勇気付けた。等身大の存在だからこそ、その言葉に勇気付けられる)

 何かをつかもう、自分も輝こうと必死に頑張る彼らの姿は魅力的で惹かれるが、その必死さゆえに彼らはナイーブで、時の強いように見えて脆い。ペルソナであるキャラクターとの垣根は薄皮一前の影のようなもので、僕らと同じ人間であることを忘れれば傷つくのは魂そのものである。それを僕らは忘れてはならない。

Anser: 自分はVtuberの何にそんなに惹かれるのか?

 現実世界の住人でありながら、彼らが纏ったキャラクターの仮想存在。

 2D絵や3Dモデルといった抽象化フィルターを通すことで、彼らの存在感は実在と切り離され、アニメや漫画といったコンテンツになれた僕にって想像やすい存在へと再構成される。しかも、その再構成は、従来のコンテンツよりも膨大な情報量によってより実在感を持っている。何度も言うようにそれは錯覚だが、自覚的であり続ける限り僕は錯覚を有意義に楽しめる。

 それこそ僕が、Vtuberに惹かれるところだろう。

 見果てることのないほどのVtuberという存在が創り出す世界。

 僕はそれを見続けていたいのだ。

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