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八丈島の流人・近藤富蔵

・罪人、富蔵

 文政十年(1827年)四月二十六日。太陽暦でいうと五月末頃、江戸・永代橋のふもとから、八丈島へ島流しにされる罪人たちを乗せた船が、川を下っていった。
 その船に、近藤富蔵という二十三歳になる若者が乗っていた。大きな身体をしているが、いかにも大人しそうで、ものやわからかな顔つきの青年である。
 犯した罪は、殺人だった。

 彼の父親は近藤重蔵と言う武士で、江戸時代の終わり頃に蝦夷地の探検家として名を知られ、奉行としても学者としても一流の人物だった。しかし重蔵もまた、富蔵の罪に連座して罰を課せられ、その名誉を汚すこととなった。

 なぜ富蔵は殺人を犯したか。それを知るにはまず、父重蔵のことについて知らなくてはならない。

・探検家、重蔵


近藤重蔵像

 近藤重蔵は明和八年(1771年)に江戸で生まれた。武士ではあったが身分は低く、貧しい家であった。しかし重蔵は幼いときから神童と呼ばれるほど頭が良く、体つきも大柄で、気の強い若者であった。
 二十四歳のときには、湯島聖堂の学術試験で最優秀の成績をおさめたことで上役の者たちにも認められ、長崎奉行の下付ということになり、重用されていった。
 しかしどれだけ能力があろうとも、元々の家柄がさしたるものでない以上、出世の天井が低いことは重蔵にとって明らかであった。その天井を破るには、どこかで派手な手柄を挙げねばならぬと、みなぎる野望と実力を発揮する舞台を、重蔵は待望していたのである。

 そんな折、日本に接触してきたロシアに脅威を感じた幕府は寛政十年(1798年)、大勢の役人を派遣して蝦夷地の調査に向かわせた。その先遣隊のリーダーに抜擢されたのが、長崎で海外や蝦夷地への見識を深めていた、二十八歳の近藤重蔵だったのである。

 重蔵は蝦夷地の調査を行うなかでエトロフに渡り、「大日本惠登呂府」の標柱を建てた。このことによって近藤重蔵は歴史に名を残した、といっても過言ではない。
 しかし重蔵の功績はそれだけではない。アイヌを使役して道路整備を行ったり、アイヌに広まる源義経伝説を調査して義経神社を建立したり、また淡路の商人・高田屋嘉兵衛の協力のもと、蝦夷地とエトロフを往来して漁場開発などに力を入れた。ときには人跡未踏の原生林を切り開き、石狩川のカムイコタンで船がひっくりかえって、あわや溺死しかけたこともあった。

 それでも重蔵は、この蝦夷地こそが出世するための唯一の階段であると信じて、その調査開発に邁進したのだった。

・役人、重蔵

 こうして重蔵は、二十八歳から三十七歳までの十年間、北海道のあちこちをくまなく歩き、その開発・発展に尽力した。
 その頃には「近藤重蔵こそ蝦夷地についての第一の学者である」と江戸の人々も認めていたので、小樽港を開くこと、札幌に役所を置くことなど、重蔵の進言で幕府もそのように動いていった。

 その功績によって、重蔵は「御書物奉行」という役につくことになった。御書物奉行とは、「紅葉山文庫」という江戸城内の図書館管理者のことである。
 重蔵はそこで昼夜問わず貴重な本を読み漁り、大変な学問を修めたものの、それを発揮する場所のないまま、今度は「大阪弓矢奉行」に任ぜられ…左遷されてしまった!

 重蔵は恵まれた頭脳・身体の持ち主だったが、そのぶん非常に強い上昇志向のある人物で、自分が望むほどには出世しないことに大変いらだっていた。
 御書物奉行は江戸城勤めと言えど、所詮は倉庫番のような仕事である。政策決定の場には携わることが出来ず、かえって蝦夷地の情報を進言していたころのほうが、政治に深く関わっていた。仕事には真面目に打ち込んでいたが、「俺の実力に見合ったものではない!」と、内心はがゆく思っていた。
 そして紅葉山文庫の修理をめぐって倹約家の老中・水野忠邦と意見が対立し、結局は左遷されたのだった。

 大阪へ飛ばされてからの重蔵の生活は、意外に豪華なものだった。
 何人もの女を屋敷に置いてはべらしたり、千種大納言の十四歳になる娘を嫁に迎えたり、大邸宅で毎日宴席を開いていた。五十歳過ぎてなお盛んなことであるが、そうした生活が出来たのは、蝦夷地で商人から相当の献金を受けていたためと言われている。
 しかしそれも満たされぬ出世欲の代償行為にすぎない。重蔵の苛立ちは日に日に募っていき、怒りは彼の家族に向けられることになった。

・重蔵と富蔵

 近藤重蔵の長男・近藤富蔵は、父に似ぬ意気地なしで、勉強もろくにせず、武芸にも励まなかったことから、重蔵はこの息子に大変つらく当たったものだった。

 富蔵が自分の子供に宛てて書いた文にはこうある。
 「父は短気な人間で、八人も妻を変えた。また沢山の女をそばへ置いたが、長続きすることがなかった。私も重蔵の本当の妻の子供ではなかった。だから生まれた時に殺されてしまうはずだったが、祖父母の情けによって助けられ、その家で暮らしたので、三歳までは親の顔も知らなかった。
 ようやく一緒に暮らすことになっても、私は父のように物覚え良くなく、本を読むのも嫌で、学問も少ししたがすぐやめてしまった。和歌は継母に日野大納言の娘だと言われるひとがあって、その人に習ったことがあった。そのほか武術も習ったが、みんな長続きしなかった。だから私は、いつも父に怒られてばかりだった。」

 あふれる才気で人生を切り開いてきた父・重蔵の目には、息子の富蔵少年がひどくつまらない男に写ったのだろう。父の鬱憤不満を叩きつけられて育った富蔵は、身体は大きいものの、内向的な若者に育っていったのだった。

・富蔵の恋

 十六になった富蔵は、父に連れられて大阪へとやってきた。ある日、出かけた先の道で美しい少女に一目惚れした富蔵は、そこへ何度も通い、やがて親しくなっていった。引っ込み思案な性分を「手に止まった蚊も殺せないではありませんか」とからかう少女に富蔵はたまらなく惹かれ、勇気を出した。
 あるとき富蔵は意を決して相手の母親に会い、娘を嫁にくれるよう頼み込んだ。「あなたが大人になり、立派な侍になったら、娘をやっても良いですよ」と言われた。富蔵の青春の中で、もっとも幸せな時間だったかもしれない。

 しかしその時間も長く続かなかった。父の重蔵は、富蔵が学問もせず町人の娘のもとへ行って遊び呆けていることに業を煮やし、富蔵を烈火の如く叱りつけた。それに反発した富蔵は、思わず家を飛び出してしまう。
 しかしこれという当てもなく、少女の家に転がり込むような度胸も無い富蔵は、京や大阪の町をあちこちうろつきまわり、しばらく乞食のような暮らしをしていた。そして町の人にわずかばかり笑われたと言って、刀を抜いて人を騒がせて捕まり、家に連れ戻されたのだった。
 富蔵は家の中に閉じ込められ、やがて年が経ち江戸へ父が帰るのについていったものの、少女のことが忘れられないままだった。

 江戸に帰ってからも富蔵はぼうっとして過ごしていた。父からは殆ど見捨てたように無視されており、家に居てもつまらないものだった。
 あるとき人のすすめで越後の寺に行き、仏教の修行を始めた。少女への想いを断ち切ろうと懸命に経文を学ぶのだが、やはり彼女のことが頭から離れない。
 そこで富蔵はある夜、寺を抜け出して大阪まで歩き出した。おおよそ600キロメートルはある長い道のりである。陽の高いうちは家の門口で念仏を唱えて食べ物をもらい、夜になれば野原や山で草を枕にして、ただひたすらに歩いていった。
 やっと大阪に辿り着いたときには、汚らしいぼろぼろの姿になっていた。この身なりで少女の前に立つ勇気は、富蔵には無かった。

 なんと彼はここまで歩いておきながら、少女に会わず言伝てもせず…なんとそのまま、越後まで引き返してしまうのだった。
 「しかし、僧侶になるには決心がつかぬ、あの子への想いが捨てられぬ」と、ようやく越後まで辿り着いた富蔵は、数日そこで足踏みして…なんとまた、大阪へと歩き出すのであった!
 今度ばかりはどうしても少女に会いたい、結婚したいという思いが富蔵を突き動かし、思い切って少女の家を訪ねてみた。しかし幸か不幸か少女は留守で、代わりに出てきた母は富蔵のあまりのみすぼらしさに驚き、娘に会わせること無く富蔵を門前払いした。富蔵は自分の情けなさにうつむき、そのまま引き返していった。

 近藤富蔵という男は、良く言えばとても純情でシャイで、それでいながら一途な行動力もある人とも言える。あまりにも長い道のりを行ったり来たりする彼を後世から眺めれば、バカだなあと呆れつつも微笑ましく感じる。
 しかし同じ時を生きている当人たちの目線には、そんなふうには感じられなかった。富蔵は父から見ればとんでもない意気地なしの大馬鹿者にうつり、富蔵もまた自分自身をそう思い込んでいたのだった。

 富蔵は大阪から京都の六角堂に寄って、二十一日のあいだ、自分の弱い心が強くなるようにとお祈りをした。
 そして心を入れ替えたつもりで江戸へ帰り、父の重蔵に会って、必ず立派な人になりますからと誓った。父も今までになくサッパリした息子の態度に満足したのか、すべてを許して、初めて親子らしい気持ちを持つようになった。

・富蔵の殺人

 父重蔵がこのように折れたのは、年をとって性格が丸くなってきたというのもある。しかし他に大きな理由として、ひとつには家計が悪くなったこと、もうひとつには大きなトラブルを抱えていたことがあった。
 大阪から江戸に帰ってきたものの、奉行職は解かれ、蝦夷地の商人たちとの縁も薄くなった重蔵には、これという役目も収入源もなくなったのである。
 そこで重蔵は江戸の蛎殻町にあった家を売り、目黒の三田村・槍ヶ崎に持っていた別邸に引っ越して暮らそうと考えた。しかしここで、トラブルが起こってくるのである。

重蔵の三田の別邸。右上の富士山に向かうように新富士を築いた。

 目黒の別邸は、近藤重蔵が御書物奉行時代に手に入れたものであった。
 そこは台地が田んぼの中に突き出て、ちょうど岬のようになっていることから、槍ヶ崎と呼ばれていた。槍ヶ崎台地の上は畑が開けており、そこから遠く富士山を望むことがきた。そこで重蔵は百姓の塚原半之助という者からその土地を買い取り、台地のはしに近いところに、高さ十五メートルほどの山を作り上げた。そしてこの人造山を「新富士」と名付けたが、人々は「目黒富士」とか「近藤富士」と呼んだ。その上にあがると本当の富士山ばかりでなく、房総半島の山々までもよく見えた。
 これが出来たのが文政二年(1819年)の初夏で、重蔵はその年に大阪へ下って行くこととなった。そこで重蔵はこの屋敷の管理を、隣人であり元地主であった半之助に頼んで大阪へと向かった。

 まもなく半之助は近藤邸との境にあった垣根を取り払い、新富士見物に来る客を相手に茶屋を営み始めたのだった。この新富士は時には大名も見に来るというほどだったから、半之助の茶屋も大変繁盛したのだった。
 そして重蔵が富蔵を連れて大阪から江戸に戻ってくると、半之助は近藤家の土地も自分のものだと主張しはじめた。その言い分は役人が認めなかったものの、新富士の見物客の多いことから、半之助はどうしてもこの土地が欲しくなって、ゴロツキを雇って重蔵を脅し始めるのである。
 例えば、重蔵が家を修理して垣根を作ろうとすると、ゴロツキがそれを邪魔して壊したり、大声で罵ってきたりするので、重蔵は半之助を斬って捨てようとする。しかし周囲の者たちになだめられ、ぐっとこらえ、赤坂の借家に帰っていく。これが毎日毎日続くことで、次第に重蔵の気持ちも参っていったのである。
 重蔵は武士で半之助はただの百姓だった。「百姓は武士の前は頭が上がらず言いなりになった」という話は、必ずしもそうではなかったようである。それにしても近藤重蔵と言えば蝦夷地開拓者として名の知れた人であったが、いまとなっては百姓に侮られるほどになっていたのだった。

 心を入れ替えた富蔵が大阪から帰ってきたのは、そんなタイミングだった。
 富蔵は半之助のやり方を見て「いつか懲らしめてやらねばならぬ」と怒りに燃える一方、だんだんと気の弱っていく父を見て、「父を助け、家族みんなで三田の屋敷に安心して住めるようにしなくては」と思い、三田の屋敷に住み込んで、半之助の妨害にめげることなく、屋敷の普請に一生懸命働くのであった。

 「もし半之助が乱暴するようなことがあれば、斬って捨てても良い」と言って、重蔵は関の孫六の名刀を富蔵に授けた。富蔵はいつか半之助と刃傷沙汰になるだろうと考え、腕っ節の強い召使を雇ったりした。この召使の妻は、毎日近藤家に浴びせられる罵声に強い憎しみを覚え、いつまで経ってもやり返さない富蔵の姿勢を意気地なしに思い、夫に愚痴をこぼした。
 そういう話が富蔵の耳に入ると、富蔵は次第に「こちらから先に半之助を斬らねばならぬ」と考えるようになった。半之助には林太郎と忠兵衛という二人の息子もいる。この二人も斬らねばならぬ。三人を相手に一人では難しいから、召使に助太刀を頼んだ。
 「仲直りしたいから話し合おう」と騙して半之助と家族を誘い出した富蔵は、不意をついて半之助一家を皆殺しにした。文政九年(1826年)五月十八日の夕方であった。

 三人だけを斬ったのであれば、武士の名誉を傷つけた者を切り捨てたということで許されたかもしれないが、そのとき富蔵は、半之助と林太郎の妻まで殺してしまった。いくら武士とは言え、力ない者をわけもなく殺すことは許されない。
 この出来事は明くる日、父の重蔵と役人のもとに知らされた。けれども重蔵はこのことを聞いて大変喜び、富蔵にもそれだけの勇気があったのかと感心したのであった。さっそく三田の屋敷に行って、富蔵を勘当したときの書類を焼き、近藤富蔵守信の名を近藤孝蔵守忠と改めさせ、正式に自分の跡継ぎとすることを申し渡した。
 富蔵の喜びようは並大抵ではなく、大阪の少女に「あなたは私を蚊も殺せない男とおっしゃったが、実は人を斬るほどの勇気もある。やはり私も武士の子なのです」という手紙を書いて、結婚を再び申し込んだのだった。
 人を殺したことを反省する前に、自分にも勇気があること、それを父に認められたことを喜ぶほうが大きかったのである。

 五月二十一日夜、富蔵は南町奉行所から呼び出され、筒井伊賀守から取り調べを受けた。富蔵は正直にありのままを申し述べると、そのまま帰宅を許された。
 家で待っていた父は富蔵に対し、「とにかく罪は罪であり、奉行所へ呼び出された以上、たぶん武士の資格を剥ぎ取られる罰が下るだろう。そうなれば大阪へ行って、お前の好いた娘と結婚すれば良い。町人として末永く暮らすがよかろう、なに生活費くらいは自分が送ってやるから」と言った。
 富蔵は初めて父の本当の愛情に触れることが出来たような気がした。もともと重蔵にも、優しく誠実な面はあったのである。そうでなければ、蝦夷地でアイヌたちの協力を得ることだってできなかった。富蔵も、そういう父を尊敬もし、好きでもあったのだが、親子の心の触れ合うことがあまりにも無さすぎた。

 しかし、もはや全ては遅かった。六月になると父の重蔵も奉行所へ呼び出され、富蔵も小伝馬町の牢屋へ送られることになった。取り調べの日々のなかで、偶然父子がすれ違うことがあった。重蔵は富蔵がはやいうちに牢屋から出るものと思い、「牢屋にいるときは念仏して心を鎮めなさい。牢屋をでたら、妻を迎えてやるからな。気を落とすなよ」と諭した。
 これが親子の最後の会話になった。
 富蔵は奉行所で八丈島遠島を申し付けられ、父は近江・大溝の分部左京亮の屋敷に預けられることになった。そして富蔵はそれから50年以上八丈島に暮らすことになり、重蔵は文政十二年(1829年)、近江にて五十九歳で病死することになり、永遠に再会することはなかった。

・流人の生活

富蔵の描いた流人船

 八丈島にやってきた流人たちは流人小屋をそれぞれ作り、そこに住んで暮らすことになる。男たちは健康であれば冬眠の仕事の手伝いをし、身体の弱い者は小屋にいて草履やわらじを作り、それを島民に食物と変えてもらって暮らしをたてた。
 富蔵もまた島へ着くと、三根村というところに小屋を建てて暮らした。しかし彼は毎日、ぼんやりと海の向こうを見つめることが多かった。それは大阪に居る娘のことを思い出しているときで、早いところ江戸へ帰りたいものだとばかり考えていたのだった。
 それはかつて八丈島に流されてきた罪人千八百余人のうち、八百人ほどが罪を赦されて本土に帰っているため、自分もまたそう遠くない内に赦免されるだろうという考えがあったためである。
 そして赦免の便りのある年には、不思議に八丈島大賀郷にある慈雲の墓すぐそばにあるソテツの花が咲くものだった。慈雲というのはかつて無実の罪で島に流されてきた江戸麹町龍眼寺の僧だった。そこで島の人々は、この花を赦免花と読んだのだった。

うれしさを人にも告げんさすらへの みゆるしありと赦免花さく

 と、流人たちは何度となく口ずさんだものであった。
 そして富蔵が島へ来てからも何度か赦免花は咲いたが、富蔵赦免の知らせは来ることがなかった。

 富蔵は島に渡って間もなく、島の百姓・栄右衛門のむすめイツと結婚した。
 本来、流人は正式に結婚できなかった。しかし八丈島というのは昔から男より女の多い女護島であり、彼女らが島に流されてくる哀れな政治犯の男たちと情を通わせることは、ごくありふれた話だった。
 かつて戦国大名だった宇喜多秀家の一族のみは正式な結婚を許されたが、それ意外の流人はあくまで女に世話になってるだけ、という体裁であった。なので、八丈島での現地妻のことを、水汲み女と言った。なので富蔵にとってのイツも水汲み女と言うべきところだったが、イツは宇喜多一族の末裔だったので、富蔵は結婚という体裁をとることができたのだった。

 妻をむかえ、そのうちに子供もできた。そうすると昔のことは忘れても良さそうだが、天保十年(1839年)に大阪の娘が嫁に行った夢を見るまで、富蔵は彼女のことを忘れることができなかったという。しかしこの夢を見てからは、本土へ帰ることを考えなくなっていった。

 富蔵は正式の学問をしたことは少なかったけれど、学問好きな父のそばにいたので、多少なり知識や学問に対する態度も身についていた。島民に進められて寺子屋の真似事をしたり、仏像を彫ったり文字を刻む必要があるときなどは、その仕事を引き受けた。そうこうするうちに、島では無くてはならぬ人になっていったのである。

・『八丈実記』

 「三根村の富蔵は読み書きができ、また記憶の良い人で色々のことを覚えている」ということが、やがて島の代官所の役人にもわかってきた。富蔵は、ときに八丈島のことについて、八丈島に生まれた者よりも詳しく知っていることがあった。これを見た役人は、富蔵に紙と筆を与え、八丈島についての事を色々書かせてみることにした。
 そのころ富蔵は、イツとの間にできた十一歳になる息子を亡くし、その子の供養のためにもなにか仕事を残しておきたいと思うようになっていたので、本格的に八丈島のあらゆることについて調べ始めた。
 とはいえ、別に富蔵は村のなかで高い身分でもなんでもない、ただの流人だったので、その生活はいたって貧しいものだった。家族で朝から晩まで働くかたわら、隙を見ていろいろの記録をあつめ、書き残していった。
 やがて富蔵は、安政二年(1855年)五十一歳のとき、『八丈実記』二十八巻を書き上げた。さらにその後いろいろ書き込みを加え、五十六歳のころには、自分の知識にある八丈島のことは書き上げてしまった。
 この大著を見た島役人たちは大変感心し、さらに立派なものにしようと、島の旧家に伝わる古文書などを見る機会を富蔵に作った。これは流人には考えられない待遇だったが、その頃には富蔵も島の人々から尊敬されるようになっており、島民も富蔵を自分たちと同じに付き合うようになっていた。
 そして全七十二巻の『八丈実記』を仕上げ、そのなかに島の政治・経済・宗教・地理・植生・風俗習慣・教育制度など、八丈島のあらゆる情報をまとめ上げ、「八丈島の百科事典」と呼ぶべき内容になっていた。

 富蔵は父の重蔵からは怠け者、意気地なしと見られ、自分もそう信じ、世間の人もそう思っていた。そして人を殺して八丈島という狭い世界の中に閉じ込められてしまったのだが、普通の流人のようにそこで朽ち果てることはなかった。
 小さい社会の中で、流人として不自由な生活をおくりながらも、地道な積み重ねによって、父にも負けぬ偉大な学業を残したのだった。

・八丈よいとこ

 明治になって江戸幕府が倒れ、流罪の制度も無くなり、多くの流人は許されて本土へ帰っていった。
 しかしなぜか富蔵にだけは赦免の通知が来なかった。明治八年(1875年)には長く苦労をともにした妻イツが亡くなり、娘二人はそれぞれ嫁にゆき、東京へと出ていってしまい、富蔵はまったくひとりぼっちになってしまった。何度も赦免花の咲くのを眺めても、富蔵は帰れなかった。
 しかし明治十一年、東京府の役人が島の視察に来て、まだ許されていない流人のあること、その流人が立派な書物を著したことを知らされ、その本を実際に見て驚いた。そして七十二巻のうち三十三巻を清書して差し出すようにと、富蔵に紙と筆を与えた。

 捨てられし海原とおく八丈(やたけ)なる 草も花咲く御代ぞたのもし

 富蔵はこのことに相当感激したようで、上のような和歌を残している。「忘れ去られようとしてた海原の果てにある八丈島も私も、『八丈実記』を通じて世間に知られるようになるこの時代は、まことに頼もしい」という意味だ。

 明治十三年、富蔵は清書した八丈実記を東京府へ差し出すと同時に、その罪を赦免された。近藤富蔵、七十六歳のことであった。

 富蔵は赦免されたあともしばらく八丈島にとどまっていたが、心を決めて東京へと出てみることにした。
 東京では娘の家に世話になることにしたが、そこでは富蔵の目を驚かすことばかりだった。江戸城は無くなり宮城となって天皇がおり、武士は消え去った。みなチョンマゲを切ってザンギリ頭にし、洋装に身を包んでいる。陸には馬車や列車が走り、海には石炭を炊いて汽船が走っている。
 浦島太郎の気分でいた富蔵だったが、やがて色々なことがわかってきた。富蔵の赦免を願い出てくれたのは一族の者ではなく、流人船の船頭だった。彼は八丈島で富蔵の噂を聞き、このような人をいつまでも島にとどめてはいけないと思い、明治維新になると同時に赦免を願い出ていた。しかし維新後のゴタゴタのせいか、いき違いで結局十三年まで伸びていたのだった。
 富蔵は人の心の暖かさにうたれた。一生懸命生きていれば、どこかで誰かが支えになってくれるものなのだ。

 そして富蔵にはどうしても気懸かりなことがあった。父の墓参りと、大阪の恋人のことであった。東京での暮らしに落ち着いた頃、今度は汽船に乗って関西へと向かった。

 まず四日市の港から滋賀の大溝へと歩き、そこの瑞雪院という寺で重蔵の墓参りをした。近藤重蔵はこの地で懇ろに弔われたという話を聞くと、富蔵は少し安心した。立派な功績を持ちながら、富蔵のような息子を持ったばかりに、一家は離れ離れになって、失意のうちに死んでいったはずである。しかし、最期はよく面倒を見てもらったということが、富蔵にとってわずかばかり救いになったのだった。

 つぎに大溝から京都へ出て、川舟で淀川を下って大阪に入った。青春の土地で六十年前のことを色々と聞いて回ったが、誰も少女のことを知らなかった。いったいどこへ行ってしまったのか。たぶん親も少女も死んでしまって跡が絶えたのだろうと思うと、富蔵の心に悲しいものが沈んだ。
 あのとき出会った十四歳の少女の姿は、いまも富蔵のまぶたに焼き付いており、彼女の供養のために西国三十三ヶ所めぐりをすることを決意した。

 旅のなかで富蔵はその土地土地の百姓と友達になったり、仏像を修理したり子供に絵本を読んでやったりした。そうすると、人々は無償で彼に宿を貸してくれるものであった。
 人々の情に守られながら大阪に戻り、東京へと引き返す途中、ある宿へ泊まると、同じ部屋に人力車夫が泊まっていた。
 その男はしきりに武術の話をしたがったが、富蔵が「武術なんかは知らぬのが良い、強いのに出会ったら逃げるのが一番だ」と言ったものだから、車夫も「そんなことはない!それは臆病者の考えだ!」とくってかかってきた。
 富蔵はその車夫に、自分のいままでの歩みをぽつりぽつりと話していった。

「私はなまじっか剣の心得があったばかりに、人を殺すようなことになってしまった。こちらが強がりさえしなければ、半之助も話を分かってくれたかもしれない。半之助を殺さなければ、向こうの家も栄えたろうし、こちらの家族も離れ離れにならずにすみ、島流しにされることもなかった。…人は、臆病者で良いんだ。なんとバカにされても良い、人に迷惑をかけない、強がりをしない。人生は、それで良いんだ」
 それは富蔵の七十七年にわたる人生の尊い教えであった。車夫は富蔵の話を聞いて、ほんとうにその通りだとしみじみ思い、富蔵におおいにごちそうし、人力車に乗せて富蔵を東京まで運んでいった。

 東京での富蔵の生活は苦しいもので、七十七歳の老人が他人の迷惑にならずに生きようというのは難しいものだった。若い頃を過ごした江戸東京には何一つ楽しい思い出もない。
 しかし八丈島にいればみんなが友達であり、また大事にしてくれた。島のことはなんでも知り尽くしているし、暖かな島人たちのことを考えると、富蔵は急に八丈島へ帰りたくなった。結局、その年の船で、また島に渡っていった。

「八丈島ほど良いところは他にはない」
 島に帰ってから、それが富蔵の口癖になった。
 島の人達は驚いた。罪を許されて本土へ帰った者で、再び島を訪れた者はかつて一人もいなかったからである。ところが富蔵は、この島のほうが良いと言って戻ってきたのである。島民たちは富蔵を暖かく迎え、三根村大悲閣の堂守にした。
 富蔵は島に帰ってからは子供に字も教えなかったし、いままでやってたような仕事は何もしなくなった。暖かい日はからだにシラミをはわせてじっと見ていたし、子供がトンボを持ってオモチャにしていれば、白い紙とトンボを交換してはなしてやったりした。ときどき道にうずくまったりしていれば、蟻の行列を眺めているのだった。
 いつも汚れて破れた着物を着ていたが、誰もがこの年寄りを尊敬の目で見ていた。

 大悲閣の堂守になってから五年後、富蔵はこの堂の中で八十三歳の生涯を閉じた。

 島民たちは亡くなった富蔵がなにかの話題で出て来ると、いつも
「ほんとうによいお人だった」
と語っていた。

近藤富蔵の墓

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