存在子供

      
ナディーン・ラバキー監督のレバノン映画『存在のない子供たち』(7月よりシネスイッチ銀座ほかで公開予定)を見ました。こちらは、映画予告編です。

日本でも、映画の中の少年少女とは別の形ではあるが、家庭や学校での「児童虐待」のケースがマスコミを賑わせています。犠牲となる子どもたちは「声」を持たない、社会の「見えない人間」たちです。

映画評の形をとって、自分の考えを書きました。少々長いですが、お付き合いください。

タイトルは、

「見えない人間」から見た不条理な世界


レバノンの首都ベイルートのスラムを舞台に、出生証明証のない少年ゼインの魂の彷徨を描く。貧困にあえぐ少年の両親は、金がないためにゼインが生まれたときに、出生届を出さなかったという。それゆえ、法的にはゼインは存在していないことになる。


そのこと自体が、この少年にとってはこの世の不条理の極みだが、推定十二歳ぐらいの少年の日常生活も、また不条理そのものである。子どもであれば当然受けるべき学校教育を受けることもできない。街かどできょうだいたちと自家製の野菜ジュースを売ったり、大家のアサードが持っている商店で、重たいプロパンボンベを運ぶなど、肉体労働をさせられているからだ。


妹思いのゼインは、十一歳で初潮が来たばかりの、すぐ下の妹サハルが両親によって強制的に結婚させられることを恐れ、二人しての逃亡を企てるが、未遂に終わってしまう。父は「結婚すれば、食事も心配なく、本物のベッドや毛布で寝られる」などと言うが、児童婚に、大人の打算(大家からの経済的な見返りを得る)が働いていないわけではない。


嫌がる妹サハルを乗せて連れ去る父のオートバイは、この世界の不条理を少年ザインに突きつける悪の象徴である。この映画には、ゼインの様々な移動が描かれるが、当然のことながら、たいていは徒歩である。ただし二度ほど、公共交通のバスに乗るシーンがある。最初のバスの旅は、唯一の生き甲斐であった妹を失い、決死の覚悟で家出する旅だ。


悲壮感漂うこのバスの旅は、しかし、隣の席に乗り込んでくるひとりの「奇人」の登場で、真っ暗闇の少年の行方に一条の光が射す。「奇人」はスパイダーマンの格好をしているが、胸にはゴキブリのマークを付け、「ゴキブリマン」と名乗る。

天狗のように高い鼻は、おそらく陽根の象徴であり、この奇人がサーカスのピエロや、シェイクスピア劇の道化などと同様、フロイトのいう<快楽原則>にいきる存在であることが見てとれる。その奇人が少年にこう言うのだ。「おばあちゃんは幸せだな。きみが訪ねてくれて。私には誰もいない」と。その言葉によって、少年は自分よりも孤独な人がいることを知らされる。社会ののけ者であるこの奇人との出会いは、ゼイン少年を苦痛と苦悩の種でしかない両親の理屈から解放する。


この奇人がバスを降りようとするのが、海沿いの遊園地<ルナ・パーク>という、非日常のカーニバレスクな場所である点も、物語芸術上、申し分ない展開だ。なぜなら、そのとき少年が本当に必要としているのは、子供っぽい混沌や快楽に身を委ねる衝動の世界だからだ。大人によって止められそうな「いたずら」に少年は手を染める。遊園地の巨大な女性像によじのぼり、隠れている二つの乳房を丸出しにする。


この映画には、ゼイン少年と同じ社会の「見えない人間」たちが他にも登場する。

遊園地で一夜を明かした少年は食事にありつくことができない。そんな窮地を救ってくれたのが、ラヒル(別名ティゲスト)という名のエチオピア人女性である。彼女は、六年ほど身元引受け人になってくれたレバノン女性の家でメイドをしていたが、恋人の子を身ごもってしまったので、国外退去になることを恐れて、都市のスラムに紛れ込んだという。

ゼインは彼女の赤ん坊ヨナスのベビーシッターになり、その代りに彼女に匿ってもらう。彼女は、アラビア語が流暢だが、雇い主に賃金を不払いにされたり、差別されたりして、不安定な生活を余儀なくされる。しかも、違法滞在や不法就労で、警察に拘束される危険にさらされている。そのため、町の偽造屋に身分証を頼むが、高額をふっかけられ、息子を里子に出せば無料でいいと、人身売買を仄めかされる。彼女もまた身分証がない周縁に追いやられた存在であり、息子もまたゼインと同じように、社会に存在を認めてもらえない「不在の人間」だ。


 さらに、もうひとり、ゼインが路上で出会う、似たような環境に追いやられた少女が登場する。マイスーンという名の、シリア難民の子だ。彼女もまた路上で物乞いをするか、花を売って家計を助けているようだ。マイスーンはゼインに、路上で生きるためのアドバイスや、シリア人難民の救済センターで、支援物資をもらうコツを教えてあげたりする。さらに、マイスーンは自分の夢はスウェーデンに移住して幸せな生活を送ることだと嬉しそうに語る。それを聞いて、ゼインもその夢を自分も実現したい、と思って、ある行動に出るのだが・・・。


中東の都市スラムを舞台にして、貧困家庭と児童労働、児童婚、育児放棄、不登校、移民の労働環境、難民の子の就労などをテーマに、都市生活の負の世界に焦点が当てられている。

これはひとり中東の国レバノンだけの問題ではない。

「子どもの人権」を無視する大人の理屈に対する問題提起がなされているという観点から見れば、我が国でも、「子どもの人権」を無視した児童虐待は後を絶たないのだから。

 
精神医学の専門家によれば、虐待された子どもは、親の論理を内在化して、自己を悪者に仕立てて、虐待の不条理を受け入れやすいという。(亀岡智美「虐待されている?」 山登敬之・斎藤環編『入門 子どもの精神疾患 悩みと病気の境界線』(日本評論社、2011年)pp.34-39)。


社会の周縁においやられた子どもたちの立場から世界を眺め、そうした子どもたちの生のたくましさや魅力も描いている優れたボーダー映画だ。
(集英社『すばる』2019年7月号に若干手を加えました)

*映画『存在のない子供たち』は 2019年7月、シネスイッチ銀座ほかで公開。

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