見出し画像

都城(みやこのじょう)旅行記(19) 島津家の歴史(発祥~明治維新)

トップの写真は都城址にあった看板です。
最上段の真ん中に「都城=島津発祥の地」と書かれています。
「ん? 島津宗家は鹿児島、都城島津家は分家なのに?」と思った私。
島津家の歴史を調べることにしました。

1185年の源平合戦(@壇ノ浦)まで遡ります。
戦功により惟宗(これむね)忠久が源頼朝より島津荘(当時日本最大の荘園、現在の都城市)の地頭を任じられ、島津忠久を名乗りました。
島津発祥の地、実は都城だったのですね(鹿児島の人からこの話を聞いたことはありませんが)
1197年、島津忠久は 薩摩・大隅・日向の地頭も命じられました。
島津家の始祖は文武に優れた人だったのでしょう。

時代は150年ほど下って・・・
南北朝の戦いの中で1341年、5代島津貞久が東福寺城(現在の鹿児島市)を攻略、氏久(後の6代)を城主として鹿児島に進出
一方で1359年、4代島津忠宗が南北朝の乱での戦功により、足利氏より山田町(都城市)を与えられ、6男資忠がこの地で北郷(ほんごう)氏を名乗る。
・・・南北朝の乱の時代に宗家が鹿児島に移り、分家(北郷家)が都城に就いたようです。6男資忠が嫡男氏久を都城から鹿児島に追い出したようにも見えます。

240年ほどくだって・・・
次に島津家が日本史の表舞台に登場するのは、1600年の関ケ原の戦い。
17代島津義弘は西軍に属したが参戦せず、東軍優勢となった後に東軍を横切って退却した話(敵中突破)、ご存じの方も多いと思います。(ご存じでない方は、「どうする家康」で出てくると思うのでお楽しみに)
故豊臣秀吉との関係から西軍に属したが、石田三成が嫌いだった義弘は「島津家ここにあり」と力を誇示した、というのが私の解釈。 この効果か、江戸時代を通して徳川幕府は島津家の国替えを行わず、島津家は薩摩藩を堅持。

因みに1663年(江戸時代)、北郷家は姓を島津姓に戻し「都城島津家」となったそうです。

1185年源平合戦で発祥して以来、南九州で力を蓄えた島津家が南北朝の乱・関ケ原の戦い・明治維新という日本の時代の節目ごとに姿を現し、実力を見せつけてきたことがわかります。
(明治維新の薩摩藩&西郷隆盛については前号をご覧ください)
 ➔ https://note.com/robin_fujiwara/n/n581294e22153

江戸時代に琉球貿易を独占し、外国の商品の輸入で富んだ(鎖国していた江戸幕府も黙認せざるを得なかった)ことは、薩摩藩が明治維新で発揮した力の源泉になったようです。

次回(最終回)は更に時代を遡り、弥生時代まで想像したいと思います。 お楽しみに💖

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?