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都城(みやこのじょう)旅行記(17) 廃藩置県(明治維新)

この旅行記の残りでは「歴史」を遡ります。
私は年代を覚えられず、歴史が大の苦手だったのですが、1冊の本(※1)との出会いのおかげで今回の旅行をこんなに楽しむことが出来ました。
(※1:島津家の戦争、米窪明美 著)

廃藩置県は1871(明治4)年に行われ、約300あった藩が3府72県に統合されました。
都城は「短い間に、都城県→宮崎県→鹿児島県 ところころと変わった」そうです。(現在は宮崎県)
江戸時代以前から薩摩藩でも重要な地位にあった都城。 居酒屋に行けば薩摩の芋焼酎が並び(※2)、霧島市(鹿児島県)の名を冠する焼酎最大手の霧島酒造(※3)がある都城市がなぜ宮崎県に入っているのか?
 ※2: https://note.com/robin_fujiwara/n/nc2a69d1ccb0b (都城の焼鳥屋)
 ※3: https://note.com/robin_fujiwara/n/n7677889dd4ef (霧島酒造工場)

私は、2つの背景「強すぎた薩摩藩」・「旧長州藩の深謀遠慮」があったのだと思います。
薩長土連合による倒幕の主戦力となった薩摩藩。 大政奉還後は旧長州藩族が旧薩摩藩の力を削ごうとした、これが廃藩置県(長州藩・土佐藩はそのまま山口県・高知県となった一方で薩摩藩は3分割された)に反映され、その後の諸改革では「薩摩つぶし」が狙われ、西南戦争に繋がって行く。(西南戦争については次回) こうして、日本の中で独立国的な力を誇った薩摩藩が現在の鹿児島県になっていった・・・

松下村塾から出た長州藩の人達(下級武士中心)が維新政府を支え、殖産興業・富国強兵・教育勅語といった日本の背骨を作り、その確固とした官僚組織は第二次世界大戦を超えて高度経済成長に導いた・・・その官僚組織の人事権を支配下に置き(私物化!)、約20年で日本国の背骨を葬り去ったのも同じ山口県の政治家、というのは単なる偶然の巡り合わせでしょうか?

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