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踏切の向こう側

 生きていく上では忘れてはいけないことがいくつもある。
 挨拶をすること。まあ、いいや。後で返そう。呑気に構えている内にどんどん人々が去って行く。気がついた時には自分だけになっている。
 さよなら。言える時に言っておかないと後からでは言えなくなる。忘れないように……。そう心がけていても、やっぱり忘れてしまうことがある。

 鍵をかける。これは基本的なことだ。
 家を出る時には、他にも忘れてはいけない基本的なことがいくつもある。
 テレビを消すこと。
 誰もいない部屋の中で誰かがだらだらと話をしていたら、それはテレビがついているのだ。何となくつけたテレビを消し忘れてはいけない。
 洗濯機の中は空っぽか。
 回転を終えた時に洗濯機の仕事は終わる。その後は人間のすべきことだ。
 人間の仕事は人間がする。それは基本的なことだ。
 真冬にシャツ一枚で呑気に過ごしている時は、部屋のエアコンが働いていることだろう。静けさに気を緩めてスイッチを切るのを忘れてはいけない。
 オーブントースターの中は大丈夫か。
 久しぶりに扉を開けてみたらいつかのトーストが固まった姿で見つかった記憶が脳裏をかすめた。ついに交代のカードが切られることなくベンチを温め続けた選手の気持ちが、トーストにはわかるだろう。そのようなことがあってはいけない。
 私はコートを羽織り家を出た。
 鍵をかける。
 ちゃんとかけたか確かめる途中で鍵が回り開いてしまう。
 そして、もう一度鍵をかけ直す。鍵は完全にかけられた。

(何かを忘れているような気がする)
 そのような幻想も、忘れなければいけないものの一つに数えられる。

 夢をみること。それは生きていく上でとても重要なこと。
 現在がどれほど困難に満ちた状態に置かれていたとしても、夢という現在の向こう側、あるいは現実とは切り離された全く別の次元を持っているということは、どれだけ心強いことだろう。今が闇に沈んでも、夢では輝くこともできる。
 夢の中では故郷の空中都市がテレビのニュースで取り上げられている。今では雲より高く突き抜けて何を目指しているかは窺えないけれど、しばらく帰っていない間に驚くことになっている。もう亡くなった人が一緒にいて意見を求めたりする。生きている人も出てくるので、実際には誰が今どうなっているのか、目覚めた後で混乱もある。
 残り夢の中の住人たちは、日常の誰よりもずっと近くに感じる。

 いくつもの基本によって、今の自分は生かされている。


 路上に出て見知らぬ人々とすれ違いながら、私は鍵をかけてきたことを思い出しては気持ちを強く持つ。
 赤い点滅、遮断機がゆっくりと下りる。
 急ぐ者は誰一人いない。
 ジャリジャリと鍵はポケットの奥で存在を示した。
 大丈夫。何も心配ない。
 長い列車が通り過ぎる。
 乗客は皆、手の中の切符に目を落とし安心していた。
 遮断機が音もなく上がる。踏切の向こうにハルが待っていた。

「遅かったね」
 犬はあきれるような目で私を見上げた。
 おもむろに立ち上がると身を振って待ちくたびれた埃を落とした。
「さあ行こうか」

#レッツゴー #小説 #エッセイ #詩 #鍵

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