“在り方”をみつめるヒント

在り方、という言葉が市民権を得て久しい。

ただこの言葉、とても曖昧かつ意味の広い言葉で使われており。イマイチ捉えきれていない方も多いのでは、と僕は考えていて。
この度行われる #ぷりバス対談 に先立ち、在り方というものの僕の定義をお伝えしておくべきではないか、そう思いこのnoteを書くことにした。

断っておくが、僕の考えが全て正しいとはもちろん考えていない。
あくまでその思考の一助になれば、という前提であることをご理解頂きたい。
というのも、在り方とは千差万別。唯一無二の答えなど無いものだ、と考えるからだ。
後述するが、それは「自分らしさ」とも全く異なるとも僕は思っている

それでは本題に入る。

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毎日が追われるように過ぎていく。

そんな中、僕らは本当に沢山の事を考えなければならなくなった。
情報過多の世の中だから、価値観の多様な社会だから、理由はいろいろあるのだろうけども。
例えば今あなたがどんな環境であろうと、必死で生きているのは分かる。
混沌とした情報はそんなあなたを混乱させるかもしれない。
その時に立ち返るところが“在り方”だと定義する。

バランスが重要だ、なんて言葉もよく聞く。
頑張り続けなければならないから、気を抜く場面が必要。汚い自分もずるい自分も甘ったれな自分も全部自分。
そういうものを抱えて、かつ抑え込んで。できるだけ見せないように誤魔化して生きている、ほぼ全ての人が。

それでもなお、停滞することは出来なかったりする。
周囲の期待は上がり続けるし、年齢に応じた結果を求められる社会であることもまた疑い様がない。
だからこそ前に進もうとするが、そこにかかるエネルギーに疲弊してしまい挫折しそうになる。
疲弊したエネルギーを回復させる休息、これをバランスと呼ぶのだろうか。
とにかくそこが大きな壁となる。

壁の前で人は、大きく分けると2パターンに分かれた選択をする。
「成長にトライする」か、「成長しないことを覚悟する」か。

前者は後ほど。
問題は後者。覚悟が必要にも関わらず、これまたほとんどの人が、何の覚悟も持たず成長しないことを選択してしまう、この部分が問題。
人としての成長が必要か?と問われれば、十中八九賛成だろう。
が、成長とは何?と問われたとき、その答えは実に様々だ。

価値観、というものを尺度のひとつとして置くなら、新たな価値観を取り入れることも一つの成長と取れるかもしれない。
情報や考え方をひとくくりに“価値観”と呼ぶのは些か危険ではあるが、ここでは分かりやすくそう呼ぶことにする。
誰かから聞き取り入れた時の反応が、感動や理解の類だった場合、それは成長とは言えない、と考えている(これを“インプット”と定義しているケースをよく見る)。
取り入れ落とし込んだ“価値観”を、実際の行動レベルにまで細分化し実行したとき(これを“アウトプット”と定義しているケースもよく見る)、それが「自分にとって正解かそうでないか」という基準で測るはずだろう。

ここにひとつの大きな違いがある、と思っている。
間違い、ではない。違い、だ。

そもそもどんな選択にも、間違いなど存在しないはずだ。というより、その瞬間に正解か不正解かなど、判断することは出来ないだろう。
だからこそ“在り方”というものの有用性が問われるわけだが。

少し話は戻るが、人としての成長が必要だ、と仮定しよう。
人としての成長は何か?と問われたときの解は様々だと言ったが、この時立ち返るものを“在り方”であるとして。
「在り方に何を持つか」で、この先の進み方が全く異なってくる。

当日、お話しする予定ではあるが、僕にとっての在り方は“命”。

命の使い方、がすなわち在り方

命の使い方に必要な物のひとつに“感情”がある。
感情の捉え方、その表し方は僕にとって、命を使うための大きな指針だ。
誰かや何かと接するとき、必ずと言っていいほど感情を伴うことになる。そこで僕の場合、対象を通じ自身の感情の理解(僕の定義ではインプット)を一度挟んでいる。
話を聞きながらどんな感情を抱くのか。相手は鑑、とはよく言ったものだ。自分の事をただただ考えたところで、いくら時間を使おうと結局は自分自身の事など、誰かや何かを通じてしか見えやしない

例えば、人の好き嫌い。
この判断はとても難しい。嫌いになることはほとんどないが、嫌われることは多い方だと思う。この現象はとても面白い。
生理的に無理だ、などというまやかしも存在するとして。人は出会って数秒で相手を判断する、なんてのも聞いたことがある。
自分の事を嫌っている、嫌がっている、多少の嫌悪感がある場合に、無意識化で“平等”を装おうとする。
つまり「同じレベルで相手の事を嫌おうとする」のだ。嫌われてるなら、こっちだって嫌いだ!というもの、経験がある方も多いだろう。

ここで、“在り方”を振り返ってみよう。

僕の場合、感情の捉え方は命の使い方として極めて重要なポイントを担っており、行動として自身の感情の理解を相手を通じて行う。
嫌われていたとして、僕が相手を同じように嫌う理由にはならない。
何故ならそれは「相手の感情など僕の方からは操作できない」からだ。
明日の天気と同じ、例え晴れて欲しいと強烈に願っても、必ず晴れるとは限らない。相手の感情はそれほど繊細で、好かれたいと思ったところで必ず好かれるとは限らないからだ。つまりは僕が可能な影響の範囲を超えている

行動として自身の感情の理解を行った後、上記の定義から次に僕がとる行動は「相手のこと“だけ”考えて話す」というもの(僕の定義ではアウトプット)だ。
実際にはもう少し細分化しているが、ここでは割愛する。
結論だけ言えば、相手のこと“だけ”を考えた時に、ケースによっては相手を意図的に傷つけることも厭わない、というものだ。

このインアウトの双方向を以て初めて「成長へのトライ」だと考えている。

人は、弱く脆い。
弱いからこそ、強く在ろうとする。
強さとは、定義しづらい。もしこのnoteに目を通してもらえたなら、その“強さ”について一度考えてもらえれば幸いだ。
誰かの為なら人は強く在れる。それが我が子だろうが、目の前の誰かだろうが、度合いは違えど、同じだ。

資本主義の中で、お金という一見分かりやすそうで分かりにくい尺度の中に身を置く僕らは、正義も悪も量りかねていて。
“心”という、日本人にとって大事なものをいつの間にかほったらかし、能力やお金の多寡だとかでその人の人間性まで見えた気になってしまう。
それは“強さ”ではないと思う。
そんな表面的で虚栄な屈折した欲を振りかざしたところで、結局はお金すら手に入りはしない

だからこそ今、時代錯誤で最先端な“在り方”というものを、今一度考えてみてはどうか、と思う次第だ。

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最後に自分らしさと在り方の違いについて。
僕は決定的に違うと思っていて。その違いは「自分本位か、相手本位か」だ。
幸せというものを追い求めた先が人生の着地点だとするなら、それを示す道しるべはなく。
ただ自分本位か相手本位かに少しでも触れたり、気付くことが出来れば、あなたの周りの状況は劇的に変化すると思う。

そして、自分らしさも在り方も、千差万別。
人の数だけあり、それでいいと考えている。この世に生を受け、あなたがこの世に生きているだけで、本当は尊い。
だからこそ、その尊さを少しでも誰かに送ることが出来れば。あなたは在り方というものを通じ、幸せというものに少し近づけると思う。

そんな想いを携え、7/28(日)のイベントに臨ませて頂きます。

長文にお付き合い頂き、心から感謝申し上げます。

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