舞台裏の尾崎豊はとても明るい青年だった
昨日、数年振りに尾崎豊の『卒業』を聴く機会があった。
たまたま隣で聴いていた妻に
「いまの若い子が聴いたら、相当、違和感がある曲なんだろうな」
と言ってみたら、
「いまの中学生くらいの子は、不況とかコロナとか不安の中で育ってきていて鬱屈しているから、意外と響くんじゃない?」
などと言われた。
内心、懐疑的に思いつつも、久しぶりに尾崎豊の事を考えてみた。
私はまさにリアルタイム直撃世代であり、高校生の頃は彼の『十七歳の地図』『回帰線』『壊れた扉から』のティーンエイジ三部作を、貪るように聴いた。
尾崎豊というと、どうしても10代での早すぎる成功やその後のスキャンダルなどの派手なエピソードが話題になる。
でも、同じ時代に生活していたのでよく覚えているのだけれど、あの’80年代後半の、昭和的価値観に最も勢いがあった当時、高校を自主退学してミュージシャンを目指すなどという行動は、「まともな人生」からの逃走であり、とんでもない反社会的行動だった。
現在の価値観に照らしても、「もっと適当に上手く立ち回りなよ…」と声をかけたくなるというか、少し目を逸らしたくなるような、イタい感じもするのが、尾崎豊という人のイメージである。
実際、私も歳をとるにつれ、尾崎豊の音楽とは自然と距離ができていった。
ところが昨日、久々に『卒業』を聴いた時、ふと
「高校を辞めて一人ぼっちになった時、彼はどんな気持ちだったのかな。
きっと想像を絶する程、不安だったんだろうな」
と、これまであまり感じた事のない気持ちになった。
彼が表現する「孤独感」は、他の表現者が気軽に使うそれとは、なんというか、凄みが違っているような気がする。
ところで、私は尾崎豊のためにサンドイッチを買いにいったという、なかなかレアな経験がある。
’87年の「街路樹ツアー」で、当時大学生だった私の地元のホールにもやって来たのだが、たまたま知人のツテで会場設営のバイトに加わることができた。
てっきり客席の椅子を並べる程度の仕事を予想していたら、巨大なPAシステムを運んで積み上げたりというとんでもない重労働で、それ以後二度とその類のバイトには近寄らなかった。
それはともかく、その重労働の後、ようやく休憩かと思ったのも束の間、マネージャーらしき人に呼ばれ、
「キミ、尾崎とバンドメンバーのために軽食を買ってきてくれる?」
とお金を渡された。
田舎者の私は気の利いた軽食が思いつかず、結局セブンイレブンでサンドイッチを買ってきて、そのマネージャーらしき人に無造作に渡した。
「尾崎豊はなんとなくレタスハムサンドかな?」と思って大量に混ぜておいたが、いま思うとカツサンドにしておけばよかったと思う。
特に理由はないけれども。
その日はPA設営とおつかいの後は、立ったまま2時間、会場ロビーの警備という人使いの荒い一日で、結局、尾崎豊が歌う姿を生で拝む機会は無かった。
ただ、リハーサルの音がロビーまで聞こえてきた時、とても楽しそうにバンドメンバーとはしゃいでいる声が聞こえてきて、
「なんだ、尾崎豊って全然暗くないぞ。というか、かなり陽気な人じゃないか!」
と、少しがっかりした記憶がある。
ところが、本番が始まりライブの大音量がロビーに響いてきた時には、何かが憑依したかのような「あの尾崎豊」だった。
ライブ終了後、会場を出て移動バスに乗り込む際の警備にも担ぎ出され、そこでやっと生の尾崎豊の姿を見た。頬杖をついてバスの窓から熱狂する出待ちのファンを見つめ、不自然な作り笑いをしていた姿が脳裏に焼き付いている。
いま振り返ると、実は彼はただ素直にプロ意識の高い人だったのではないか、という気がしている。ファンにとっての理想の尾崎豊像をちゃんと把握していて、彼なりに誠実に演じようとしていたというか。
想像だけど、虚像の自分と実像の自分とのギャップで、相当にしんどい気分の時もあったのかもしれない。
そんな彼が残したあまり多く無い楽曲は、字余り気味で収まりの悪い歌詞と垢抜けないアレンジで、いま聴いても異物を飲み込んだような、少し不安な気分になる。
でも、その異物感を必要としている人は、意外と今、たくさんいるような気もしている。
(おわり)
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