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勝手に妄想してみる「もし尾崎豊が生き続けていたら(後編)」

勝手に妄想してみる「もし尾崎豊が生き続けていたら」の後編。

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【妄想】96~99年の尾崎豊の活動

この時期の尾崎豊の活動を妄想するのは、なかなか面白い。

まず、96~99年の主なヒット曲は以下のとおりである。

I’m proud 華原 朋美
アジアの純真 Puffy
ガッツだぜ!! ウルフルズ
名もなき詩 Mr.Children
幸せな結末 大滝 詠一
夜空ノムコウ SMAP
LOVE AFFAIR~秘密のデート~ サザンオールスターズ
energy flow 坂本 龍一
Automatic 宇多田 ヒカル
Grateful Days Dragon Ash
本能 椎名 林檎

明らかに、95年以前とは雰囲気が変わってきている。
国内のCD売上は98年に約5,879億円を記録しピークを迎えている事からも分かるように、音楽業界は大変に活況だった。そのためか、チャートを見ても、旧世代と新世代が入り乱れ、だいぶ風通しの良い雰囲気になっているのがよく分かる。

一方、メインストリームに相対するロックのジャンルの方でも、劇的な変化が起きている。

99年8月には北海道で伝説の第1回ライジングサン・ロックフェスティバルが開催されている。 BLANKEY JET CITY、THEE MICHELLE GUNELEPHANT、THE HIGH-LOWS、Dragon Ash 、NUMBER GIRL、電気グルーヴ、UA、椎名林檎らが出演し、26,500人の観客動員を記録。日本のオルタナティブ・ロックが確立された象徴的なイベントとなった。

RISING SUN ROCK FESTIVAL 1999 in EZOの出演アーティスト

つまり、ポップソングが主体のメインストリームと、ガレージロックやグランジの影響を受けたオルタナティブが共存し、邦楽市場が多層的に厚みを増していったのが、この時期である。

それでは、このように活況を呈する邦楽シーンの中で、尾崎豊はどのような活動をしていただろうか?

妄想なので勝手な事を書くと、意外と尾崎豊は音楽業界とは距離をとっていたような気がする。

尾崎豊が吉川晃司・岡村靖幸と仲が良く、3人で六本木で頻繁に飲み歩いていたのは有名な話である。この3人は、それぞれは強烈なキャラクターと才能を持っているのだが、邦楽ロック史の世代グループ的には「狭間の世代」にあたる。

桑田佳祐や佐野元春の「上の世代」や、ミスチル、エレカシ、奥田民生、ブランキーやミッシェルなどの「下の世代」に比べると、大きなムーブメントを形成したとは言い難い。例えば「シティポップ」とか「J-POP」のような、ジャンルとして岩盤となるファン層を掴んだかというと、正直その印象は薄い。

そのせいか、それぞれの事情はあるものの、吉川晃司も岡村靖幸も90年代は音楽活動はおとなしめで、雌伏の時期を過ごしていた印象が強い。あくまでも妄想だが、尾崎豊も少なからず彼らと同じように、一歩引いた活動をしていた可能性がある。

ひとつ、ありそうだなと思い浮かぶのは、小説家への一時的な転身だ。実際、未完で終わったものの「黄昏ゆく街で」という恋愛小説を92年に発表している。

そこからさらに発展して、映画制作にチャレンジしていた可能性もある。尾崎豊がどの程度、映像の世界に興味があったかは不明だが、桑田佳祐や小田和正が映画監督にチャレンジしたりと、ミュージシャンが異業種の映画の世界に進出する流れが、90年代には実際にあった。

【妄想】00年代以降の尾崎豊の活動

どうせ妄想なので、図々しく00年代以降も簡単に想像を巡らせてみたい。

90年代に一時的に低迷していたとしても、どこかのタイミングで尾崎豊の音楽は確実に再評価されていたと思う。

後にミスチルが「僕が僕であるために」を、宇多田ヒカルが「I LOVE YOU」をカバーしているので、彼らのファンの若い世代から新たに注目を集めて、
「リビング・レジェンド」として復活していたかもしれない。

もしくは、01年のアメリカ同時多発テロ事件や東日本大震災といった、社会を揺るがす危機のタイミングで自らの意思で復活し、音楽で何か発信してくれたかもしれない。

そして、ロック・イン・ジャパンやライジングサンなどのロック・フェスで、井上陽水や矢沢永吉がそうだったように、圧倒的な存在感で初見の音楽ファンに凄みを見せつけていたかもしれない。

以上、尾崎豊がもし生き続けていたとしたら、というテーマで勝手に書き連ねてみたところ、思いがけず90年代以降以降のJ-POPや日本のオルタナを振り返るという濃い目の内容になってしまった。

あらためて尾崎豊の魅力を考えてみる

あらためて尾崎豊という人は、突出した個性の稀有なアーティストであり、シンガーだったと思う。

収まりの悪い字余り気味の歌詞と、洗練されているとは言い難いアレンジの楽曲ばかりで、苦手な人にとっては煮ても焼いても受付けにくい、クセのあるアーティストではあったと思う。

でも、彼にしか紡ぎ出せない言葉の連なりがあり、それが独特の緊張感と説得力を持っていた。

例えば「Driving All Night」の
「今夜俺 誰のために生きてるわけじゃないだろう」
とか、ふつうなら
「今夜俺 誰のために生きてるわけじゃないだろう」
とするのが日本語の使い方としては正しい。でも、
「今夜俺 誰のために生きてるわけじゃないだろう」の方が切迫感がまったく異なって響く。

無意識なのか意図的にそうしたのかは分からないが、そういう彼独特の言い回しのセンスは、他の誰にも真似できない絶妙なモノがあったと思う。

誰でも気軽に表現を発信できる世の中になり、自分もその恩恵に預かってはいるが、だんだんとその環境に麻痺してしまい、言葉を軽く扱って適当極まりない表現をしてしまう事が多々ある。

そんな時、尾崎豊の音楽を聴くと、なんとなく「しんとした気持ち」になり、我に返ったりする。

彼の音楽は、今でもそういう不思議な力を持っていると思う。

(おわり)

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