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供養レジュメ「ジャディディズム」

序文

 この記事は、筆者が中退した大学のゼミ、そこで書いた「ジャディード運動」、別名「ジャディディズム」についてのレジュメを供養する目的で書いた。それだけ。

 ていうか自身のレジュメのコピペである。

 今目を通すと、かなり稚拙な構成および文章だ。(心の底からそう思う)

 自分の意見は限りなく取り除いておいた。

 あとで修正する。知らんけど。

 ちなみに、サムネイルの画像は、著作権に引っかかるのを防ぐため、筆者自ら筆を執り描いた、ガスプリンスキーである。

1.はじめに

 「ジャディディズム」とは、ロシアのクリミア・タタール人ムスリムであるイスマイル・ガスプリンスキー(1851-1914)によって開始された、19世紀末から20世紀にかけてのロシア領トルキスタンに広がった教育改革運動である。

 この「ジャディディズム」という名称は、「ジャディード」というロシア領トルキスタン内でテュルク系ムスリムのための、「共通トルコ語」(テュルキー)による「新方式教育」(ウスーリ・ジャディード)などを行っていた人々の通称からきている。

 この共通トルコ語はイスタンブールから新疆までのテュルク系諸民族が読むことができたと言われ、ガスプリンスキーの刊行物である「翻訳者」(テルジュマン)(1883-1918)によって広まった。

 この新方式教育は、オスマン帝国で、セリム・サービト・エフェンディによって行われた初等教育、「ウスーリ・ジェディーデ/ジェディード」の影響を受けている。

 ガスプリンスキーの後、活動はブハラにおいてはアイニー(1878-1954)やファイズッラ・ホジャエフ(1896-1938)、フィトラト(1886/7-1937)など、オスマン帝国においてはユースフ・アクチュラ(1876-1935)やヒュセインザーデ・アリー(1864-1941)などに引き継がれた。

 この教育改革は従来の教育法と比べ目覚しい成果を挙げたが、これに反対する勢力もいた。

 第一に、ロシア帝国当局が挙げられる。彼らとってジャディードの活動は帝国の統合と安全を脅かす危険な「パン=トルコ主義」や「パン=イスラーム主義」に他ならなかった。

 第二に、ウラマーが挙げられる。彼らは自分たちの既得権益が脅かされることを恐れ、さらに、アラビア語に代わってロシア語や共通トルコ語、その他世俗科目(数学、理科、歴史、地理)を教えることはイスラーム法に反するとした。

 さらに、ソヴィエト連邦において、スターリン時代のトルキスタンでは「ジャディディズム」を行うものは「パン=トルコ主義」や「パン=イスラーム主義」を信奉するものとして、粛清された。

 この「ジャディディズム」は、1990年代においてはトルキスタン研究における花形だった。しかし、現在においては「ジャディディズム」のロシア領トルキスタンにおける影響力を疑問視する傾向がある。

 中央アジアにおける「ジャディディズム」に関する研究は歴史家である小松久男氏やAdeeb Khalid氏、大石真一郎氏など、また、その前身であるタタール知識人の研究をはじめとして多岐にわたる。

 はじめ、ガスプリンスキーは活動する中で、「パン=トルコ主義」を考慮に入れてなかったが、徐々に「パン=トルコ主義」に傾倒するようになっていった。

 ガスプリンスキーは自信の刊行物である「翻訳者」のなかで、「言語における、思想における、そして行動における統一」という「パン=トルコ主義」的なスローガンを挙げている。また、バスマチの中には「パン=トルコ主義」を標榜するエンヴェル・パシャ(1881-1922)のような人物もいた。

 これにみられるように、「ジャディディズム」は後の時代には「パン=トルコ主義」的な側面を持っていた。これは、トルキスタン各地からトルコ共和国内へ大量の亡命者が流れ込むことによっていっそう強まった。


2.指摘


 以下に代表的な研究者を紹介する。
 

 一人目は磯貝真澄(以下敬称略)である。19世紀から1930年代にかけての中央アジアを専門とする学者で、ロシア帝国内のムスリム居住地域の教育社会史やロシア帝国のムスリム統治政策を、オスマン帝国の歴史と絡めながら書いている。


 二人目は長縄宣博である。19世紀から現在までのヴォルガ・ウラル地域のムスリム社会を専門としている。著作では、ロシア革命期の、ジャディードやロシア議会のムスリム社会への影響を書いている。


三人目は小松久男である。近代中央アジアに関する著作を多数執筆しており、特にフィトラトやアブデュルレシト・イブラヒムなどに関する著作は有名である。さまざまな人物に視点を置いて歴史を紹介している。


 四人目は坂本勉である。テュルク民族に主眼を置き、それに関する著作は有名である。「パン=トルコ主義」などを研究している。


 磯貝真澄は、ガスプリンスキーは「ロシア帝国のムスリム知識人」として活動していたと指摘している(磯貝2016:275)。


 長縄宣博は、これまで、ジャディードをはじめとする新しい知識人は、西洋を賛美し、イスラームの教えを批判してきたと評価されてきたが、イスラームに立ち返る動きが見られたことが見逃されていることと、ソヴィエト連邦崩壊後、スターリンの大テロルによって粛清された人々を名誉回復しようと運動が行われてきたが、近年、その名誉回復が過剰なものとなっていること、この二つの問題を指摘している。


 また、小松久男は、現在、ジャディディズムの研究そのものの意義を疑う声が上がっていると指摘している(小松2018:236-237)。


 坂本勉は、ソヴィエト連邦崩壊後の現在の中央アジア5カ国において、各国家の民族主義の奔流が過去のトルキスタン・ナショナリズムとは異なっていることを指摘している。その原因は、過去のソヴィエト・ロシアによる、各民族の境界線の設定に端を発していると指摘している(坂本1996:144)。


3.歴史的な流れ



 以下にジャディードに関する歴史的な物事を、ロシア帝国、ソヴィエト連邦と絡めながら叙述していく。

 モンゴル帝国の征服後、中央アジアではハーンと呼ばれる人々が君主として立ち、近代中央アジアにはコーカンド・ハン国、ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国の三つの国が鼎立していた。

 クリミア戦争で敗北したために、農奴解放、ゼムストヴォの設置、情報公開などの「大改革」を成そうとしていたアレクサンドル2世(在位1855-1881)率いるロシア帝国は、その三ハーン国を1865年から1881年にかけて征服する。

 中央アジアはロシア領トルキスタンとして五つの州に分けられ、軍人によって統治された。代表的な人物として挙げられるのが、日露戦争にも参加していたクロパトキンである。 

 征服後、中央アジアの言語・文化がロシア化・キリスト教化したため、その反動でテュルク系民族の民族意識は高揚し、同時に、クリミア・タタール人の間ではマドラサやマクタブの頑迷固陋なウラマーらを教育の現場から排除し、新たな教育を始めようという「ジャディディズム」と呼ばれる改革運動が起きた。

 この改革には前述のガスプリンスキーが先頭に立ち、クリミア・タタール語の語彙をアラビア語・ペルシア語のものからテュルク語のものに置き換えるなどした。

 この「ジャディディズム」は、タタール商人を通じて中央アジアにも広がっていった。

 なぜ、タタール商人が中央アジアにまで手を伸ばしていたか。

 それは、イスラームを進んだ宗教として評価していたヴォルテール、その彼の教えを受けたエカテリーナ2世の政策によって解放されたムスリムの中にクリミア・タタール人がおり、中でも、アメリカ南北戦争後にロシアがアメリカの綿花を中央アジアでも栽培できるように品種改良すると、その綿花の取引を通じて裕福になったタタール・ブルジョワジーと呼ばれた商人らが、中央アジアにまで商業の販路を伸ばしていたからである。

 そのタタール・ブルジョワジーの中には前述のガスプリンスキーも含まれる。

 余談ではあるが、この中央アジアにおける綿花栽培は、アイニーによって「綿の内部は白いが、綿市場の内部は黒い」と批判されるほど搾取のひどいものだったようだ。 

 ガスプリンスキーはクリミア・タタール人の貴族である。

 マドラサに2年間通った後、10歳(1861年)のときにはギムナジア、12歳(1863年)のときには陸軍幼年学校、14歳(1865年)のときにはモスクワへ行き、モスクワ軍学校へと入学する。

 ガスプリンスキーはこの時期にロシア啓蒙思想に触れることになる。

 ところが、クレタ問題を知った彼は、1867年に学友とともにオスマン軍に入隊しようとしたが、この試みはオデッサ港で捕まることによって失敗に終わり、学校を去ることになる。

 その後クリミアで行政職についた彼は、1881年に「ロシアのムスリム集団」という論説をロシア語で著す。その内容は、行政府が率先してマクタブ・マドラサの教育を改善すべきだ、という意見であった。ここでいう行政府とは、ロシア帝国の行政府のことである。

 1883年に、ガスプリンスキーは刊行物「翻訳者」を刊行する。この「翻訳者」は20年以上にわたってロシア帝国内で唯一のテュルク語で書かれた刊行物となる。

 1884年にはクリミアのバフチサライに最初の新方式学校を設立する。

 1896年には、「露東条約」という論説を著す。この論説でガスプリンスキーは、ロシア帝国とムスリム国家が協力し合い、共存することを展望した。

 話はそれるが、ガスプリンスキー以前に「ジャディディズム」の先駆者となった人々がいた。

 アブドゥルカイユーム・アンナースィリーとムハンマドサリーム・ウメトバーエフである。

 ガスプリンスキーより先にムスリムの啓蒙・教育のために活動していた彼らだが、「新方式」を謳うマクタブ・マドラサの改革は1890年代、つまりガスプリンスキーの活動の後に目立ち始める。 

 ガスプリンスキーに感化され、1903年から1904年にロシア帝国内地を旅行することによってクリミア・タタール人などと交流した、マフムードホジャ・ベフブーディー(1874-1919)はイスタンブールやメッカ、メディナへの旅から帰国すると、1903年には新方式学校、1908年には「ベフブーディー図書館」の建設を開始した。

 ベフブーディーなどをはじめとするジャディードは、それまでアゼルバイジャン人などが啓蒙の手段として用いていた演劇を、中央アジアにも同じく啓蒙する手段として活用しようとした。代表的な戯曲は「父殺し」である。

 この同時期1905年革命のあった1905年の8月より、ガスプリンスキーは言語問題に着手し始め、「共通トルコ語」と呼ばれる「ボスフォラス海峡の船頭からカシュガルのラクダ曳きまで」理解できるとされる言語を作り出した。

 1912年には「思想・言語・行動によるテュルクの統一」というスローガンを掲げる。

 しかし、その後ロシア領トルキスタン内でフィトラトなどにより、チャガタイ=トルコ語による文語からアラビア語・ペルシア語の語彙を取り除き、純粋なチャガタイ=トルコ語を作り出そうとする、トルキスタン・ナショナリズムが興隆し、「パン=トルコ主義」的な運動は衰退していった。 

 そのトルキスタン・ナショナリズムの代表的な人物が先述のフィトラトである。当時のトルキスタンは、フィトラトの「私はアジアで最も無知蒙昧な宗教都市、暗黒の統治に従うブハラに生まれた」(小松1996:25)という言葉が示すとおり、頑迷固陋なウラマー等イスラーム保守勢力が強い力を持っていった。

 1908年、フィトラトは「青年ブハラ人」を称する改革派知識人グループを設立した。しかし、この運動は先述のイスラーム保守派から強い抵抗を受けた。

 その後、1917年から1924年の間に文化的な土壌を生業としたナショナリズムが興隆した。

 特に、第一次世界大戦期、1917年にロシア帝国内で二月革命が起こると、ジャディディズムも活発化し、「イスラーム評議会」(シューラーイ・イスラーム)と呼ばれる、ロシア領トルキスタンのムスリムによる政治参加と自治を目標とする政治組織が立ち上げられた。

 しかし、その後1917年に十月革命が起こり、ボリシェヴィキが政権を手にすると、1918年2月にトルキスタン自治政府は赤軍などによって打倒されてしまう。これを契機に、フェルガナ地方で反ソヴィエト抵抗運動「バスマチ運動」が起こった。

 その後、1918年3月には青年ブハラ人のファイズッラ・ホジャエフらがブハラ・アミール国で武装クーデターを起こすが失敗した。

 先述のベフブーディーは1919年3月25日にブハラ・アミール国に捉えられ、拷問の末に殺害された。

 1918年4月30日にトルキスタン初のソヴィエト共和国の、トルキスタン自治ソヴィエト社会主義共和国が成立する。同時に、トルキスタン共産党「ムスリム・ビューロー」が成立する。

 ジャディードたちはこのソヴィエト政権や、トルキスタン内においてソヴィエト政権に抵抗するバスマチ運動に接近するものがおり、四散した。

 余談ではあるが、バスマチ運動に身を投じた人の中には、かつてオスマン帝国で第一次世界大戦期に陸軍大臣・総参謀長を勤めていた、エンヴェル・パシャの姿もあった。

 1924年にロシアのソヴィエト政権は、トルキスタン、ブハラ、ホラズムのソヴィエト共和国を解体し、民族別の共和国を設置する。この民族別の共和国は、ある意味で画期的であったが、後に争いの原因を孕むこととなる。

 イスラームとのつながりを持たなかったソヴィエト連邦は積極的にムスリム・コムニストやジャディードを登用したが、その後緊張が高まり、スターリン時代には先述のアイニーのような稀有な例を除いて、フィトラトを含むムスリム知識人の多くが粛清された。 

 その後フルシチョフのスターリン批判によって、粛清されたムスリム知識人の名誉は回復された。しかし現在では、その名誉回復も過剰なものとなっていると指摘されている。


参考文献


磯貝真澄「ロシア帝国ヴォルガ・ウラル地域ムスリム社会の『新方式』の教育課程」

秋葉淳・橋本伸也編『近代・イスラームの教育社会史』第7章,194-216頁,昭和堂,2014年

磯貝真澄「ガスプリンスキー」小松久男編『テュルクを知るための61章』(エリア・スタディーズ148)272-276頁,明石書店,2016年

長縄宣博「ヴォルガ・ウラル地域の新しいタタール知識人―第一次ロシア革命後の民族(миллəт)に関する言説を中心に」『スラヴ研究』33-59頁,50号,2003年

小松久男「革命の中央アジア」東京大学出版会,1996年.

小松久男「近代中央アジアの群像―革命の世代の軌跡」(世界史リブレット人080),山川出版社,2018年

小松久男「ロシア革命とジャディード知識人」帯谷知可編『ウズベキスタンを知るための60章』(エリア・スタディーズ164)85-89頁,明石書店,2018年

小松久男・荒川正晴・岡洋樹編『中央ユーラシア史研究入門』山川出版社,2018年

坂本勉「トルコ民族主義」講談社,1996年

坂本勉「トルコ民族の世界史」慶応義塾大学出版会,2006年

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