Ni(内向的直観)についてのまとめ・考察

今回もユングのタイプ論のNiの部分を読んで、
何となくNiの全体像がつかめたのでまとめていきたいと思う。

内向的直観の本質

まず、Niの核となる部分の話から。

このようにして内向的直観は意識の背後にあるあらゆる過程を、ある意味で外向的感覚が外的客体を捉えるのと同じくらい明瞭に捉える。したがってこの直観にとっては無意識的イメージが、〔外向的感覚にとって〕事物ないし客体が持っているような高い地位を獲得する。

タイプ論 - C.G. ユング (著), 林 道義 (翻訳)

上記は簡単に言えば、NiはSeの反対の機能で、
Seが外の事物に対して明確なセンサーを持っているのに対して、
Niは無意識的なイメージに対して明確なセンサーを持っている
のだという。
その結果、Niユーザーは、ーちょうどSeユーザーが外の刺激によって方向づけられるのと同じようにー
内的なイメージを重視し、それによって方向づけられる。

例えば、心因性の眩暈発作に襲われ得た時、Siユーザーはその感覚をありのままに感じ、細部を記憶する。そこで起きた感覚が全てであり、知覚は感覚を捉える以上のことはしない。
対してNiユーザーは、刺激をきっかけとして捉え、そこから派生するイメージに固執する。

ここでは、その個人に「心臓を矢で射抜かれてよろめいている男のイメージ」が浮かんだとしよう。
直観はこのイメージに対して、あらゆる細部を探索しようと試みる。
Niユーザーは、こうしたイメージが生まれ、変化・発展し、ついには消失していく様を詳細に知覚する。

このことから、Niユーザーは自身の内部に呼び起こされたイメージ、
ー無意識や集合的無意識から生まれるイメージー
に対して、詳細な観察が可能であり、
その結果、内的なイメージが外部の客体(外の世界のあれこれ)よりも重要であると感じる人たち、ということになるだろう。


Niと反発する機能(劣等機能Se)

Niをより詳細に理解するために、劣等機能Seとの関連を探っていきたい。

この直観は感覚の協力を撥ねつけてしまうため、神経刺激伝達の障害・無意識的なイメージが及ぼす身体への影響・をまったく、ないし不十分にしか認識できない。このため、そのイメージは主体から切り離され、本人とは何の関係もなくそれ自体で存在しているように思われてしまう。

タイプ論 - C.G. ユング (著), 林 道義 (翻訳)

上記について簡単にまとめると以下のようになる。

Niユーザーは内的なイメージを参照する過程の中で、Seを抑圧する。
よって、そのイメージは自身と客体の関係や客体の持つ具体性から離れることになる。
先ほどの心因性の発作で言うと、内的イメージ参照の過程において、
この現象(発作)は具体的客観性や関連性を欠いたものとして捉えられ、本人とは関係なくそれ自体で存在しているように感じられるのである。

上記内容の文章を最初に読んだとき、そんなことあるか?と疑問に思ったものだが、
確かに純粋にイメージを捉えようとするとき、それは自身との関係の中で考えられるのではなく、他の事物にも展開可能な一般的なイメージとして考えられるような気もする。
発作の例では苦しさがあるので、感覚的にすぐに引き戻されるはずだが、
純粋に思考する段になれば、その思考は自身から切り離されるのではないだろうか。


Niが道徳的問題に関わる理由

この話に対して、「いや、自分はイメージと自分との関係を切り離していない。イメージの中に自分がいることだってある。現に道徳的な問題を自身の問題として関連付けるINFJが多いじゃないか」という批判が聞こえてくる気がしなくもない。
安心して欲しい。それに対してもユングは回答している。

こうした特性を持った内向的直観が首座を占めると独特のタイプ、すなわち一方では神秘的な夢想家と予見者、他方では夢想家と芸術家を生み出す。

タイプ論 - C.G. ユング (著), 林 道義 (翻訳)

自身と世界を切り離していないのが夢想家で、
いま指摘があった、世界(道徳的問題)と自身を切り離していない(ように見える)のが予見者・芸術家ということになる。

前者は、判断が抑圧されていて、知覚の支配下にあるため、道徳的問題は「わけの分からないもの」、「まったく馬鹿げたもの」になる。
これは個人的にニヒリズム的な考えもこちらに含まれると思っている。
知覚を志向するNiは、"イメージからイメージを渡り歩いて"可能性を追い求めながら、その実そこに現れるイメージを自身とは関連付けないのである。

要するに判断を主機能とするタイプは、判断のために知覚があるため、常にイメージは自身の判断に帰結するものと捉えるのに対して、知覚機能はその機能の本質的に偶然に現れてくるものに対して受容的で、知覚したものが自身とは関連がない可能性が十分にあるのである。

では、どうすればNiユーザーの知覚が道徳的問題に方向づけられるのか。

彼は自らの幻視が持っている意味に心を奪われ、それがもつ広範な審美的可能性よりはむしろそれが自分に対してもっている内容的意味から生じうる倫理的影響力の方を気に掛ける。自らの判断を通して彼は、自分が人間として丸ごと自らの幻視の中に何らかの形で入り込んでいること、そしてこの幻視が単に観照されうるだけでなく主体の血肉にもなりうることを、もちろん大抵はただ漠然とではあるが、認識させられる。この認識によって彼は、自らの幻視を自分自身の血肉に変えなければならないと感じる。

タイプ論 - C.G. ユング (著), 林 道義 (翻訳)

ユングは判断機能の力も少し借りる必要があると明言したうえで上記のことを言っている。
要するに知覚したイメージが、実際どういう影響を及ぼすのか、(ここでは倫理的にだがユングがINFJであるためこの例になったと思われる。)にとらわれ、それを知覚しようとしているだけなのだ。

つまり夢想家も芸術家/予見者も、結局は知覚機能に支配されている。
認識し、道徳的イメージを思考した結果、そのイメージの中に自身を見つけ、そのイメージに沿って自分が方向づけられているに過ぎないのではないか。なぜならこの内的なイメージはNiユーザーにとって、ーSeユーザーが外部に方向づけられるのと同じようにー 詳細まで理解できるものであり、信頼できるものでだからである。


NiとMBTIの親和性

また、これはINFJ(INTJ)がMBTIを好きな理由にも繋がってくる。
客体や外の世界に対して防衛的な姿勢を持つ内向型は、自身の主機能を使って世界に対抗する。
Siなら自身の経験や感覚のイメージを強固にし、Tiなら内的な思考組み立て、Fiなら自身の価値観を強くすることによってである。

では、Niはどうか。Niなら自身の内的な(直観的な)イメージを強固にすること、そしてそのイメージで世界を飲み込むことで世界に抵抗するのであろう。

MBTIはNiユーザーにとって、外的な現実に対する防衛機能としての役割を持つのではないか。
そのため、自身を抽象化しすぎて現実との接点を失う場合もあるかもしれないが、慣れた機能で世界と向き合うことができるツールとして非常に肌に合うものなのではないか。


まとめ

結局のところ、Niの説明は最初の章の最後で述べた以下になる。

Niユーザーは自身の内部に呼び起こされたイメージ、
ー無意識や集合的無意識から生まれるイメージー
に対して、詳細な観察が可能であり、
その結果、内的なイメージが外部の客体(外の世界のあれこれ)よりも重要であると感じる人たち、ということになるだろう。

では具体的に「イメージをどう詳細に認識しているのか」、に関しては
みんなで情報を出し合って、こういう(特徴的な)認識をしている、というのを炙り出していくしかないように思える。

脳科学の文献とか見てみたら、近い答えが見つかるかもしれないので、
めちゃくちゃ時間ができたら見てみます。

※余談ですが、Niには集合的無意識が関係してるそうです。
正直ピンとこないので、その辺に関しては曖昧です。お許しください。

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