言語と音楽について

お久しぶりです。noteという媒体があまり私向きじゃないのか、連載を終えてから自然と足が遠のいてしまっていますが、卒業を本格的に諦めた今、日々の授業で感じることを書き残すことこそ芸大に行っている意味ではないかとの思いがあり、となるとアウトプットする場所としてはここしかないわけで。

私なりの「卒業」

そう、卒業はほぼ完全に諦めたのですよ。前回は色々書いたけど、突き詰めると結局は和声です。努力してできるようになりたい気持ちもあるけれど、努力したところでできるようになる保証はなく、現状、無駄かもしれない膨大な努力を積み重ねるほどは卒業したくない。というか、そこそこ努力した今の時点での実力で既に、そこそこ満足できている。ま、あくまで「現状」なので、3年生か4年生になってからやっぱり卒業したくなってまた和声始める羽目になって、嗚呼1、2年のうちにやっておけば良かった、と後悔する可能性は大きいけれど。

ちなみにですが、卒業を諦めると今度は何を目標に過ごせばいいか分からなくなる、下手すると今すぐ全部やめたくなるという問題があり、そこでとりあえず、同級生と同じ期間いて、同じ数の単位を取ることを新たな目標にしてみました。必修で落とす分を一般教養などで補い、中身はとにかく数が揃ったらそれを個人的な卒業とみなす感じです。まあこれも、またすぐ変わるかもしれないけれど。

と、長々前置きをした上で、本題。といっても本題は、前置きと全く無関係なわけではありません。諦めた和声と、「今すぐ全部やめたくなる」の筆頭であるソルフェージュが、私はなぜこうもできないのかについて、色々思うところがあるわけです。

自慢ではありません

私は子どものころ英語圏の国に住んでいたので、流暢に喋れるかどうかはともかく、英語の発音だけは割とネイティブに近いと思います。帰国したばかりのころは、英語の授業で先生方が一生懸命発音を教えているのを聞きながら、失礼にも「全然違うのに」と思っていたし、LとRが同じに聞こえるという同級生の話が全く理解できなかったものでした。

そのころは、住んで日々英語にさらされれば誰でも身につくものだと思っていて、大人になってからでは無理なのだと気付いたのは、大学生になって友達が留学したりするようになって、帰ってきたその子たちが、英語力はもちろん私なんかよりずっと上になっていたけれど、発音に関しては変わっていなかった時。以来色んな人の英語を聞いてきたけれど、帰国子女以外でネイティブのような発音で話す人を、私は一人も知りません。

ネイティブのような、と一口に言っても幅はあって、アメリカンスクール育ちの完全バイリンガル女優でもアメリカ映画に出る時には発音を指摘されると聞くし、私の発音だって本物のネイティブからしたら完璧ではないはずで、その証拠に私も、アメリカ英語かイギリス英語かは分かっても、地方訛りとかまでは全く分からない。ただ、帰国子女の日本人同士の間で、ひと言聞けばあの人もそうだって百パーセント分かるのは事実です。

こんな、下手すると自慢に聞こえかねない話をここまで懇切丁寧に説明したことにはちゃんと理由があって、それは発音の違いというのがそれほど明らかなものだということが、分からない人には本当に分からないということを、音楽を学んだことで身をもって知ったから。自慢の類いでは全くないのです。

からの、音楽の話

和声やソルフェージュでは、和声感、和音聴音というものが求められます。簡単に言ったら、ピアノがドミソの和音を鳴らした時に、それがドミソだって聴き取る能力です。私は一応子どもの頃にピアノを習っていたので、単旋律の聴音はまだなんとかなる、いや現状なってなくて落ちこぼれだけど、慣れればなんとかなると思えなくもない。でも和音となると、まずもって鳴ってる音が3つなのか4つなのかが分からないのです。

ソルフェージュの授業中、それを言ったら先生が戸惑っていて、説明に困る先生を見て思いだしたのが、中学の英語の授業中の自分自身でした。LとRの違いを説明しろと言われてもできない、だって全然別物じゃんとしか言いようがない。同じように、子どもの頃から音に親しんできた人たちにとっては、3つのものは3つだし4つのものは4つだし、ドミソはドミソだしド♭ミソはド♭ミソでしかないのでしょう。と、置き換えたことを置き換え返すと、大人から英語を始めてネイティブ風の発音を身につけるのが不可能なのと同様、私が今から和声感を身につけることも不可能だと思うわけです。

ネイティブ風が高望みというだけで、大人から英語を始めてもきれいで正しい発音で話す人はたくさんいるから、私の聴音だって諦めなければもう少し向上はするのだろうけれどもまあ、それはいったん置いといて。私が入学してからずっと感じているこのことが事実であることが、今年とっている音楽と脳科学の関係みたいな授業で割と証明されました。人間の脳は、子どもの頃はどんな音でも判別できるけれども、成長の過程で必要ない判別能力が刈り込まれていくようにできているのですね。

音感がある人って、耳がいいのだから言語の聞き取りや発音も全般的に得意なのだろうと思いきや、ソルフェージュ超できる子が英語の発音もいいかと言ったらそんなことはなく、フランス語の聞き取りがお手の物ということもない。音楽の天才である同級生の皆さんと一緒に英語やフランス語の授業を受ける中で身をもって感じていたこのことも、何ら不思議なことではなかったとこの授業で分かりました。

本日の結論

とこのように、できない理由が分かるだけでも十分楽しいのでやっぱり、できるようになって卒業する必要はないと思う!というのが本日の結論1。

そしてもうひとつ、絶対音感があるのとか、英語の発音がネイティブ風なのとかって一見すごく羨ましい事象だけど、子どもの頃にやれば程度の差はあれ誰でも身につけられることだから、小さいお子さんがいる方はぜひ「刈り込まれる」前に身につけさせてあげてください。絶対音感がある=音楽の才能があるわけでも、発音がいい=英語ができるわけでもないけど、子どもがやれば努力なしで身について、大人がやると努力しても身につかないんだから、そりゃやっといたほうが得でしょ、という2つ目の結論をもって、本日のnoteはおしまいにします。

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