『路上の言語』Skateboarding is not a Sport13

周縁のものが使うHEROという言葉には、音楽の世界では『WORKING CLASS HERO』がある。抑圧されている状態に不満を感じ反体制の意志を持つものは行動を起こす。反体制的行動を起こす集団は集団の類像としてのHEROを求める。Anti Heroは、抑圧されている周縁のものが中心に対して行動を起こしHEROを求め表れるというような、求める集団と表れるHEROという構造に対してAntiだという意思のもとに名付けられている。彼らを含めスケーター自身は政治や社会に対して具体的な行動はとることはない。『WORKING CLASS HERO』は反体制の集団のHEROであろうとした。中心という抑圧する側のHEROとは思想が違うだけで、集団にとってHEROであろうとし求められ存在していたという構造は変わらない。

中心対周縁という対立構造の立場にいるのではなく、それをかたちづくる構造そのものに対してAntiでいることを表明している。それは相手に対立の意見を伝えるために関わろうとしつつも鏡写しのような同じ構造を持つことと違い、俯瞰で見ているからだ。中心対周縁という対立構造を対岸の出来事としてみている距離を取った態度からは

〔諷刺という〕側面はミミクリだけのものではなく、戯画とか警句とかざれ歌にも共通し、また勝利者や専制君主を愚弄しながらそれに扈従(こしょう)した幇間〔道化〕にも共通したもの
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P233

と通じるものがある。

リーダーシップを取ろうとするスケーターはいないし、スケーターはリーダーを求めていない。スケーターも同じ価値観を持った一つの集団といえるが、そこにはリーダーとしてのHEROはいない。スケートボードも世代交代を何度か繰り返しているので過去の世代に対して敬意を込めてレジェンドと呼び憧れを抱くことがある。レジェンドをHEROと呼ぶこともあるがそれは個人にとってのHEROであり、一つの目標に向かう意志でつながった集団が求める類像としてのHEROとは違う。スケーターは友人同士でチームをつくることはあるがそれは感覚を同じくした連帯意識から生まれるものであり、スポーツの協会のように理事や監事などが統治する権力構造で成り立つ組織を進んで立ち上げる人間はいない。ある程度のまとまりを持った集団にはなるが大組織のようにはならない点は、カリフォルニアに工房を構えていたモダニストたちと似ている。WORKING CLASS HEROではなくAnti Heroでいることを望むのもこれらの感覚と根を同じくしている。WORKING CLASS HEROを求めることは自分たちの声を代弁してくれるような、求める目標を体現してくれるような象徴としての類像を求めることだが、スケーターは思想を持ち声を上げることはしない。楽しく遊んでいるときに思想なんていうものは鬱陶しいのだ。

Anti Heroは自分たちを野獣に見立て、先述したGirl Skateboardとともに『Beauty and the Beast』というツアーを行ったことがある。言わずと知れたディズニーの『美女と野獣』をモチーフにしている。Girl Skateboardの『Girl』という名前はRick Howardとともにチームを立ち上げたMike Carrolの学生時代のあだ名に由来しているのだが、彼は学生時代に女の子(Girl)みたいだとからかわれていたのだ。このような名付けに現れるシニカルな態度はスケーターらしさのひとつだ。

遊びの規則と、集団の構成員に普通みられる長所短所との間には、じっさいに類縁関係があり、このつながりは深まる一方である。好んで行われまた、広く普及している遊びが、人びとの性癖傾向や好みやもっともありふれた考え方を示している一面、と同時に他面では、そうした遊びは、遊戯者が本来持っていた美徳や欠点をさらに強め、隠微のうちに彼らの習慣や好みを踏みかためるのだ。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P140

遊びとそれを行う集団には類縁関係があるという。秩序と結びつかないイリンクスとスケーターの気質には相互に影響を与え合う点がある。そのようなスケートボードがオリンピックの種目になるというのはどのようなことなのだろうか。スケートボードとスポーツを比べた場合どうなのかを考えてみたい。スケートボードはスポーツではないということが言える。

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