ほぼ高卒で研究者を名乗るようになった

最初にいっておくと、一応大学は出ています。
ただ、いま研究のため勉強している哲学や文化人類学とは完璧に無縁な経済学メインで、いまでいうFラン大学だったことと、ゼミの教授が「お前ら遊べ。学生は遊ぶもんだ。課題も卒論も出さないし出席さえしていれば単位はあげる」と仕掛けた罠にまんまと嵌ったため(笑)勉強はまったくしませんでした。なので、受けた教育としては高卒程度です。ほぼ高卒とはそういう意味です。

研究対象としているスケートボードは中学二年から始めました。いまから27年前です。このときから高校受験で一年ほど空いたけど20年滑りました。「スケートボードってなんでこんなにおもしろいんだ!」「スケーターってほかのひととなんか違うんだよな」という疑問を感じ始めたのが二十歳ぐらいのころ。それからずっとこの疑問を考えています。

考えていたとはいえ、疑問の答えをみつけるための手段を知らない。学問というものをまったく知らない。高卒なので。論文や学術書を初めて目にしたのが30代半ば。そのときは都立図書館に行きロンドン大学建築学の教授でありスケートボードを研究対象にしたイアン・ボーデンの『スケートボーディング、空間、都市―身体と建築』と、20年ほど前からスケートボードを研究している法政大学の矢部教授の論文を読みました。イアン・ボーデンの著書はスケートボードの雑誌で、矢部教授のことはLIXIL出版から出ている『10+1』で知っていていつか読んでみようと思っていたものでした。
(そこで初めて図書館に入るのにあの透明なビニール袋を目にしたという。こんなことすんの?図書館なのに貸出ないの?と驚いた。)

周囲に大学でまじめに勉強に取り組んでいたひとはいたのかもしれないけど、学問とかの話題になったことがないので30代半ばになるまでなにも知らなかった。ひとは対象の存在自体を知らなければ疑問に思うことすらできない。意識の外側にあるものを考えるには、環境により偶然目にするか教えてもらうしかない。独学で勉強するもののつらいところです。

そのとき図書館に行った理由は次のとおりです。そのころはまだ写真を撮っていて
(一応写真家も名乗っています。『TOKYO / JAPAN』という写真集の2016-May2018-Juneに二度掲載され、2018-Juneに掲載された写真はHOTEL THE KNOT SHINJUKUに展示されました。)

(左端に写り込んでいるのがわたしです。
このころはまだ杖なしで歩けていました。( ノД`)シクシク…)

自分にしか取れない写真を、ということでスケーターの感性(こういう言い方は気恥ずかしい。笑)を生かした写真を考えていました。ですが、構想ができ上がったもののスケーターがどういうひとなのか、どういう感覚をもっているのかが鑑賞者に認識されていないと通じない。そのためスケーターとはどういう感覚を持っていて、その感覚はスケーターではない人と比較した場合どういう差異があるのかなど、とにかくスケーターを知ってもらわなければ自分の写真は理解されない。そんな理由で研究する必要があると考えていたのです。

でも研究の仕方がわからないから考えていただけです。イアン教授と矢部教授がスケートボードを研究対象にしてはいたけど、それは建築学と社会学、ポピュラー文化などの分野でありスケーターの行動の結果に焦点を当てているものだ。私が知りたいのはスケーターのものの見方であり感覚だ。そういった視点でスケートボードを研究対象にしていて、且つ経験があるひとはたぶん日本で自分以外にいないと思う。正直、矢部教授と彼のもとで同じくスケートボードを研究していた田中教授(当時はたしか助教?)の論文を読んでも新しい発見は特になかった。研究対象としている集団の中で20年生活していたのだから、当たり前と言えば当たり前なんだけど。そして研究の仕方がわからないまま数年が過ぎます。

突然ですが研究していてメモ書きしたものを少しだけ公開。
「スケートボードをスポーツと捉える人がいる。それは別に間違いではないが本質ではなく一つの側面だ。本質とは何かというとスケートボードを現在の様な形に発展させていった「遊び」だ。ただ、遊びといっても遊びの「行為」ではなく遊びに取り組む「意志」がスケートボードの本質だ。

例えばサッカーはマオリ族の太陽を求める儀式が元になっているが、儀式を行う「行為」に楽しみを感じたひとがあらわれたことで世界中に広がりやがてサッカーになった。遊びの「行為」から感じられる楽しみが本質にあるため儀式の内容は消失し、球体を蹴る「行為」はやがてひとつの方向に向かいサッカーとしてまとめられルールという枠がつくられた。「行為」に楽しみを感じていたので儀式の「内容」は重要ではなく伝播していく過程で失われていったのだ。」

その間スケートボードと見立ての共通性に気付き、日本画や着物の文様、日本建築の意匠が好きだったこともあり日本画、文様などを花で見立てた写真を一時期撮っていました。

突然、事態は動き出します。

若い友人にスケートボードの研究がしたいと考えていることを話し、スケーターが街中で何をどう使って滑っているかを説明していたら「それってストロースの『野生の思考』で説明できるんじゃないですかね?」と教えてくれたことが研究が動き出したきっかけでした。また、その友人は自分に文章を書くことを勧めてくれたひとでもあります。

そしてクロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』を買い、次にアンリ・ベルグソン『物質と記憶』(これは最近新訳が出て、哲学者の間で素晴らしいと話題になっています)を読み…といろいろなものに手を出すようになります。なんの知識もない状態で素人が読み始めたのですごく大変でしたけど、しつこくやっていたおかげで読み始めて3年ほどたった今は、中村雄二郎『共通感覚論』や市川浩『精神としての身体』などはすんなり読めるようになりました。ツイッターでは思ったことを書き続けていたら大学教授や院生がフォローしてくれるようにもなりました。(アカウント@栗原啓輔『路上の言語』

で、いまは身体が悪くなりすべてがストップという状態に。笑

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