『路上の言語』Skateboarding is not a Sport14

スポーツとはどのような概念と定義されているのだろうか。坂上康博氏の『スポーツ文化の価値と可能性:1960~70年代の国際的な宣言・検証を中心に』によると、

ユネスコ事務局のフランシス氏が強調したように、〈スポーツ宣言〉はその前文で、
1 スポーツとは、プレイの性格をもち、かつ自己あるいは他者とのたたかい、または自然の構成要素との対決を含む身体活動である。
2 この活動が競争をともなう場合には、つねにスポーツマンシップにもとづいて遂行されなければならない。フェアプレーの観念なしに真のスポーツは存在しない。
3 以上のように定義されるスポーツは、教育にとって注目すべき手段である。
とスポーツのあるべき姿を規定した。1はスポーツの概念的規定であるが、そこでいう「プレイの性格」とはホイジンガやカイヨワらの遊戯の定義、いわゆるプレイ論を前提としたもので、限定された時間と空間の中で、絶対的な拘束力を持つルールの下で行われる自発的な活動といった性格を指しているととらえていいだろう。
引用:坂上康博『スポーツ文化の価値と可能性:1960~70年代の国際的な宣言・検証を中心に』

と述べられている。ここで坂上氏はスポーツの概念的規定で述べられているプレイの性格とは「ホイジンガやカイヨワらの遊戯の定義」を前提とし、「限定された時間と空間の中で、絶対的な拘束力を持つルールの下で行われる自発的な活動といった性格」をもつものと言及している。

要約すれば、スポーツとはカイヨワのアゴン・競争の性格を持つものであることが前提であり、絶対的なルールの下で行われるものという解釈になるだろう。スポーツ論の中にはイリンクス、アレア、ミミクリは含まれていないだろう。スケートボードは確かに一つの側面としてアゴンの性格を持つ。ある有名なスケート・スポットで誰かがトリックを決めればその場所でもっとすごいトリックをしようとし、それが噂を呼び競争になる。有名な例ではウォーレンバーグのBIG 4と呼ばれる大きなステアだ。だがそれのみが滑る目的になることは決してない。他人と競争することが目的ならば新しいスケート・スポットを発見するために都市をスケートボードで流したりせず、一か所にとどまりトリックのメイク率を上げるために練習しているはずだ。また当たり前の話だが、都市にあるベンチや花壇などはひとつひとつ材質や高さが違う。違いが多ければそれだけその都度対応しなければいけない点が増えるわけで、メイク率を上げるにはそれらの違いは邪魔なものでしかない。それでもスケーターがいろいろなところに行き新しいスケート・スポットを探すのは、いまよりももっと面白いものを探しているからであり遊ぶことが目的だからだ。

「限定された時間と空間の中で、絶対的な拘束力を持つルールの下で行われる自発的な活動」という部分だが、スケーターが都市で滑る場合最後の「自発的な活動」以外すべてが当てはまらない。時間と空間は限定されていない。好きな時に好きな場所で滑ることができる。絶対的な拘束力を持つルールもない。スケーターが自らこれをするのは辞めようと思うような、拘束力にも似た機能を持つものもあるがそれは好みによるものだ。それはルールという明文化された拘束力を持つものではなく音楽の好みのような好き嫌いの話だ。

スケートボードがなぜかスポーツと誤解されているが、スケートボードをスポーツだと認識するのは大会だけを見てストリートで滑ることをみていない。大会はスケートボードにとってはただの副産物だ。アゴンの遊びが真剣になり制度化しスポーツ化したように遊びの先にスポーツ・大会があるのではない。イリンクスの遊びの一部としてカーニヴァルの要素を持った大会があるのだ。

大会というのはスケーターにとってはただのカーニヴァル・お祭りでしかない。大会とは普段と同じ場所が普段とは違う状況になり、そこで久しぶりに会うスケーターや初めて会うスケーターたちが一同に集まるカーニヴァルの場所なのだ。その場所では点数はその場を盛り上げるための副次的なものでしかない。皆が遊びで滑っているときにひとりだけ真剣にやっていては興ざめしてしまうのだ。学校の休み時間でふざけて遊んでいるとき、誰かがまじめに正論を述べると場が白けてしまうことがあるだろう。そのまじめさがスケートボードの世界ではスポーツという概念であり、大会というカーニヴァル・お祭り騒ぎに遊びを忘れるほど真剣になり過ぎることはスケーターにとってはスポイルスポートなのだ。そのスポイルスポートに該当するまじめさは大会という場で発揮される場合だけではなく、大会のために練習する行為も含まれる。スケートボードは大会で一等賞になるために「まじめ」にやるものではないのだ。スケーターはスケートボードという概念にのみ従い発展してきた。そこにルールや点数という枠はなくなにをやっても自由だ。見るものすべてがスケート・スポットになる可能性を秘めており、点数が低いからこのトリックはやらないというような、自分の行動の幅に制限をしてしまうようなものはない。

大会を開くことができるようになったのはもちろんトリックが開発され複雑化したからだが、誰もがすべてのトリックをできるわけではなくそのため大会という競争が成り立つ。ただ、誰も競争を目的とはしていない。

またこの段階から、故意に作り出され恣意的に限定された困難――つまり、それをやりとげたからといって、解決しえたという内面的満足以外のいかなる利益をももたらさないような困難――を解決して味わう楽しみが、遊びの中に登場してくる。この原動力となるのが、まさにルドゥスなのだ。~略~これはアゴンとは次の点で異なる。ルドゥスでは、遊戯者の精神の緊張と才能とが、競争とか対抗の明確な意識とは無縁のところで破棄されるという点である。すなわち、ルドゥスにおいては、戦うあいては障害物であって、一ないし数人の競争者ではないのだ。引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P70-71

この引用部分だけでもスケートボードがスポーツではないということが伝わるだろう。スケーターが、いやサーファーが波を求めてバンクやプールを発見しただけでは終わらずにトリックを複雑化させていった原動力はこのルドゥスだ。「戦うあいては障害物であって、一ないし数人の競争者ではないのだ。」。

スケーターは誰かと競い勝つことを目的となどしていない。ただ「滑る」という行為と困難に立ち向かうこと、そしてその困難を乗り越えることに楽しみを感じているのだ。大会はその中の部分でしかない。

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