『路上の言語』Skateboarding is not a Sport12

スケーターのモラトリアムを示唆するものは写真だけでなく、名付けの感覚にも表れている。

20年ほど前、『THE GREATEST 30 CLUB』というチームがあった。スケーターといえば子供の遊びで滑り続けても20代のうちに辞めてしまうものが多かった時代に、30歳を過ぎても滑り続けている人たちがつくったチームだ。この時代はスケートボードと仕事にうまいこと折り合いをつけ両立させている人は少なく、家庭を持つような年齢になるとスケートボードを辞めるか、それともスケートボードにどっぷり浸かる振れきった極端な生活を送るもの。スケートボードを続けるということはそういうものだという先入観があった。そのような時代の中に名付けられたこの名前はまさにモラトリアムを自覚したところから名付けられており、同時にいい大人になってもスケートボードをし続けるという自虐的プライドが現れている。

50代のスケーターがスケートボードと仕事を当たり前のように両立させているいまの時代にはこのような感覚はもう失われてしまい、文化が発展している途中の不器用で不安定な時代だからこそ生まれた感覚だ。発展途上の時代にはこのように極端な関わり方しかないように思ってしまうことがあるのだろうか。いつの日か『THE GREATEST 30 CLUB』というチームがスケートボードの文化の中の一時代に確かに存在し、その名前はひとつの感覚を現していたと皆が回顧する時代を迎えるときがくるだろう。そのとき『THE GREATEST 30 CLUB』は、文化が築き上げてきた歴史の中のある一つの時代にスケーターが持っていた感覚を証明するものとして確かに存在していた、という正統な価値を持つ。我々はいま言葉の持つ意味の変遷の中に生きているのだ。

ある例外的状況のなかに一緒にいたという感情、共同で世間の人々のなかから抜け出し、日常の規範をいったんは放棄したのだという感情は、その遊びが持続する時間を越えて、のちのちまでその魔力を残すものである。
引用:ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』P39

このように名付けが文化を現す例は多数存在する。プロフェッショナルという一流ではなく二流でもなく、『amateur』という素人を現す名前を名乗っていたチームがある。社会の中でメインストリームになることはなくマイノリティーで細々と滑っているスケートボードの立ち位置をメタ的に捉え、スケートボードの世界でプロフェッショナルのような表舞台に立つ存在にはならず自分たちは周辺にいる「永遠の素人」であるという意味だ。ちなみに『amateur』と名乗ってはいるが雑誌に載るぐらいうまい。

一方アメリカには『Anti Hero』という名前のチームがある。その名前にふさわしく絶対にヒーローがとらないような言動の多いスケーターが集まっており、最高にかっこいいチームだ。ファッション雑誌でスケーターのファッションの一例として取り上げられることの多い「ディッキーズにヴァンズ」という格好は、『Anti Hero』のボスであるJulien Strangerが流行らせた。いや、正確には彼の影響力で勝手に広まっていったものだ。スケートボードの文化は社会の中心と比較した場合明らかに周縁に存在する文化だが、彼らはさらにスケートボードの文化の中でも自ら周縁に居続けようとしているタイプのスケーターだ。例えばB-Boyは自分たちの手段/文化で獲得したカネで裕福な暮らしを誇示するような、自分たちの文化の力を中心に対して見せつけるような行動をすることがある。中心に対して見せつけることは自分たちの「周縁の文化」の中に中心の価値観を持ち込んでいることになる。Anti Heroはこのような社会の中心の価値観を自分たちの文化に持ち込むようなことはせず、ただスケーターであり続けようとしている彼らは素人のamateurではなく否定のNotでもなく、集団が憧れるヒーローに対して『Anti』で居続けようとしているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?