『路上の言語』Skateboarding is not a Sport 3

今後、カイヨワによる以下の遊びの四分類を基に述べていく。

・ミミクリ(模倣)…海賊ごっこをして遊んだり、ネロやハムレットを演じて遊ぶ。
・アレア(偶然)…ルーレットや富くじに賭けて遊ぶ。意志を放棄し、運命に身をゆだねること。
・アゴン(競争)…サッカーやビー玉やチェスをして遊ぶ。個人の責任を引き受けること。
・イリンクス(眩暈)…急速な回転や落下運動によって自分の内部に器官の混乱と惑乱の状態を生じさせて遊ぶ。
各用語の説明部分 引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P44、P51

ミミクリ
ミミクリとは演劇のようなものである。それは

すべて遊びは、幻覚(illusion)とまではいかなくても(この言葉はin-lusioすなわち遊びにはいること、というう意味だが)、少なくとも、一つの閉ざされた、約束により定められた、いくつかの点で虚構の世界を、一時的に受け入れることを前提としている。
すなわち、人が自分を自分以外の何かであると信じたり、自分に信じ込ませたり、あるいは他人に信じさせたりして遊ぶ、という事実に基づいている。引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P54、P55

丘を舞台とし、他人になりきる。小道具として木を立て依り代として神が宿るものとする。周囲の人間もその設定を信じ、遊びの世界に入る。演劇の世界はこうして成り立つ。バンクやプールを波と錯覚した感覚を元に都市でサーフィンの模擬をしたことは、ゆくゆくはこのミミクリ(演劇)に繋がっていく感覚だ。

ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』では、ミミクリは上述の引用部の演劇やごっこ遊びのように意図的に真似ることだけでなく、その真似の傾向はついつられてしまうものも含めている。例のひとつとして欠伸を取り上げているが欠伸が感染してしまう話を元に、これらのつい真似てしまうようなことを「模擬」の源泉としここから物真似という概念や嗜好が誕生すると述べている。

子供は大人を真似ることで子供の世界をからはみ出し、大人への準備を整えていく。大人は眼に見えている表の現実の世界をはみ出し、仮面をつけ仮装することで虚構の遊びの世界を作り出していく。

そうしたことがなぜ楽しいのかというと、遊戯者が仮面をつけ仮想しているという事実それ自体が楽しいのであり、またその事実が生み出す結果が楽しいのである。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P57

ミミクリは規則に対して服従する性格は持たないとカイヨワは述べる。規則の代わりに

現実を隠蔽し、第二の現実を顕示することがそれに代わっている。ミミクリとは絶え間ない創作である。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P60

ミミクリは現実の社会の規則に服従していては遊びにならないのだ。すべて自分たちで創作し楽しいと想える世界をつくりあげていくこと、その世界に浸ることが楽しいのだ。サーファーが都市の中に波を発見しそこでサーフィンの模擬をしたことは絶え間ない創作のひとつである。植物は植物としてしか使っていけないのであれば依り代などは誕生しなかったし、そのものをそのものとしてしか使っていけないのであれば代替品という概念は生まれなかっただろう。「第二の現実を顕示すること」ができないのであれば物語は生まれず、現実をただ現実としてしか認識できない無味乾燥な世界になっていただろう。

ミミクリは他の遊びと接続する。アレア(運、賭け)とはほとんど結びつかないがアゴン(競争)とは結びつく。

アレア
偶然の気まぐれそのものが、遊びの唯一の原動力となっているのだ。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P50

簡単に言えば賭け事である。偶然に配られたカードにハートのエースがあったために勝った、さいころの目が半だったので勝った。偶然の遊びとはこのような自分の力ではどうすることもできない運と呼ばれるものに運命をゆだねて遊ぶことだ。

すべて競争という形をとる一群の遊びがある。競争、すなわち闘争だが、~略~ここで取り上げられているのは次のような競争である。ただ一つの特性(速さ、忍耐力、体力、記憶力、技、器用など)に関わり、一定の限界の中で、外部の助けを借りずに行われる競争。その結果、勝利者というのは、ある種目での最高記録という形をとる。スポーツ競技の規則というのはこのようなものである。
遊びのこの原動力は、どの競争者にとっても、一定の分野で自分の優秀さを人にみとめられたいという欲望である。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P46、P48

スポーツは遊びの分類ではこのアゴンに属するが、スポーツ以外のものでも競争という形を取ればアゴンに属する。例えば、目をつぶって片足で立ってどちらが長く立っていられるかというような他愛のない遊びや、くすぐりっこをしてどちらが我慢できなくなるかといったものの類だ。このような競うことの楽しみがアゴンの源泉であるが、これらが過剰になり過ぎ片方がくすぐるときに相手を誰かに押さえつけさせるようなことをしてしまうとアゴンから遠く離れてしまう。

競う遊びというのは

人為的に平等のチャンスが与えられており、争う者同士は、勝利者の勝利に明確で疑問の余地のない価値を与えうる理想的条件の下で対応することになる。
勝負の初めにおけるチャンスの平等。これを求めることが競争の本質的原理である。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P46、P47

アゴンは例えばオリンピックのような壮大な開会式とともにはじまることから、まるで儀式のような見世物としての機能を持つ。また、ミミクリと結びつくことで演劇のような役割も持つが、それは観戦者が選手と自分を重ね合わせることで選手になったかのような錯覚を覚えることによる。

例えばスポーツの大会の観衆。彼らは競技者を真似るのだ。サッカー選手と自分を、マラソン選手と自分を重ね合わせ、真似ることであたかも自分がそのスポーツを競技しているかのように錯覚する。「がんばれ!」と応援しているのは選手に重ね合わせた自分を応援しているともいえる。また、例えばボクシングの選手の身体に乗り移り、相手のパンチが出たところでそのパンチを避けようと自分の身体が右に左に勝手に動いてしまうことがある。これも欠伸の感染と同じものだ。

スケーターもこれと同じような経験をしている。歩道と歩道の間の車道を飛び越えるギャップ越え(要は幅跳びのこと)をしようとし、距離が足らずに歩道の縁石に後ろのトラックが引っ掛かり吹っ飛ぶ映像など見たときは思わず身体がつんのめったときの感覚を覚えるだろう。また、大きなステアを飛んでいる映像観ていると身体が落下しているような感覚になる。バンジージャンプを観ているときも同じような感覚を味わう。これらのことは映画のなかの役者に自分自身を重ね合わせる模倣・模擬と同じである。そのことからスター選手と人気俳優は同様の機能を持っているといえる。

つまり、アゴンは壮大な開会式や規則正しい試合運び、選手の卓越した技術などで一つのショーのような機能も有すると同時に演劇のような性格も持つが、これは観衆のミミクリによるものだ。これらの機能により成り立つものが大会である。また、観客はミミクリにより選手になることで、違うチームの選手を互いに応援する観客と観客の間で第二のアゴンが発生する。

スケートボードが見世物として、大きな大会として成り立つのはこのミミクリとアゴンが結びつく点に由来するのだが、その前にイリンクスの説明をする必要がある。なぜスケートボードがオリンピックの種目に選ばれたのか、なぜ人気に陰りが見え始めたスポーツの代わりとしてスケートボードが、その前にはスノーボードなども含めいわゆるエクストリームと呼ばれる遊びがスポーツとして取り上げられたのか。また、その際に遊びのイリンクスの部分に光が当てられないのはなぜなのか。そういったことの説明をしていきたい。

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