『路上の言語』Skateboarding is not a Sport11

社会を表すものをシニカルに取り入れた表現が生まれるようになったのは80年代後半から90年代初期に該当する。その時代は都市で滑るストリートスケートが隆盛し街中にスケーターが増えた時期であり、それに応じ社会から器物破損や歩道から道路への飛び出し、道路での走行など、スケーターに対する批判の声も大きくなっていった時代だ。

それ以前のプールやランプはスケートボードの世界の中心にあり、それらはストリートと違って社会と直接交わることはない。そのような区切られた空間の中で滑っていた時代の社会は、スケートボードという世界を外から見ており自分たちとは接点を持たない外部のものと認識していた。もちろん60年代からスケーターは都市で滑っていたが、一か所にとどまり花壇やベンチを破壊するようなことはなかったので自分たちの文化の秩序を脅かす存在ではなかった。接点の薄さからふたつの文化が密に交わる、摩擦を起こすことはなかったがスケーターが都市で滑るようになってから社会のスケーターに対する見方が変わったのだ。スケーターがスケートボードの概念的境界であるフチをまたぎ都市に進出したことで、社会がスケートボードの世界に口を出すようになるのだ。

その外部からの声を捉えて生まれたスケートボードの一時代を代表する表現に度を越した「パロディ」がある。

マクドナルド、デニーズなどアメリカの様々な大企業のロゴのパロディがつくられ訴訟を起こし社会問題に発展することも数知れずあった。中にはバナナで有名なChiquita Brands Internationalのロゴまでパロディ化されている。いまはもうなくなってしまったが、VISIONというデッキカンパニーがあった。そこにはストリート・スケートボードの礎を気付いたマーク・ゴンザレス、のちにハリウッド俳優になりトム・クルーズと共演を果たすジェイソン・リーがいる。音楽好きの人にとっては『あの頃ペニー・レインと』でバンドのボーカルを演じていた、という方が伝わるだろう。通称ゴンズと呼ばれるマーク・ゴンザレスはVISION(見える)を脱退し自分でデッキブランドを立ち上げる。名前はblind(見えない)だ。

〔諷刺という〕側面はミミクリだけのものではなく、戯画とか警句とかざれ歌にも共通し、また勝利者や専制君主を愚弄しながらそれに扈従(こしょう)した幇間〔道化〕にも共通したものである。~略~すなわち、これらはすべて均衡の欲求の表現なのである。権威の度が過ぎるとそれの滑稽な対応〔写し〕が必要になってくるのだ。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P233

パロディにはサーファーにはなかったスケーター独自の、またミミクリの特殊な側面である諷刺が垣間見えるが、スケーターは社会からの声すらも「遊んで」いるのだ。スケーターがストリートに出たことで社会から認知されたが歓迎されているわけではないことを知ったとき、パロディという遊びで応えた。スケーター側から社会を象徴するものとして大企業を選びパロディの対象としたことはまさに「勝利者や専制君主を愚弄しながらそれに扈従(こしょう)した幇間〔道化〕」である。スケーターがプールやランプで滑っていた時代にはシニカルな表現というものは生まれなかったものであり、このような表現は時代が生んだものだ。それ以前のスケートボードで流行っていたグラフィックにはスクリーミングハンドと呼ばれるものがあり、それはスケートボードの映像や音楽とリンクした自分たちの世界を中心としたもので社会との交わりを感じさせるようなものはなかった。

スケートボードが社会から認知され様々な意見が出るまでシニカルな態度・表現は取られていなかったことから、世間の意見がシニカルな態度を生んだことがわかる。それもまた皮肉な話ではある。

設立20年を超えるアメリカのGirl Skateboardというブランドの広告に、スケーターのモラトリアムな側面をたった一枚の写真のみで表現した素晴らしいものがある(私はこの広告がスケートボードの世界で一番素晴らしいものだと思っている)。アートディレクターはAndy Jenkins、撮影は今では映画監督として有名になったSpike Jonez、モデルのスケーターはGirl Skateboardの立ち上げのひとりであるRick Howard。製作年は1996年。

手にぶら下げたハルク・ホーガンの人形が幼児性を、ほぼ腕がちぎれかけているところが衝動の激しさを表す。人形を持っているいい年齢をした大人が背中を丸めた後姿から虚しさや情けなさが伝わってくる。オーバー気味に撮られた露出、ポラロイドの粒子の粗さと退色したような色味、乾いた空気感が過去を振り変えるような気持ちにさせる。

社会のレールの上に乗ることを拒否しモラトリアムを続けている自分をメタ認知したときの、社会的な意味での大人とスケーターの両面に挟まれた心情が表されているし、世間から見たいい年齢の大人のスケーターはこのように見られているのだろう、と自虐的に表現している。

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