路上の言語〜ストリート・スケートの起源『棒馬としてのプール』6

文化的影響におおわれているということはその文化に沿った仕方でものと関わっているということだが、それはどのようなものだろうか。

記号論学者のエーコは、文化が生じたといえるのは次のような場合であると定義している。

(i)考える生物が石の新しい機能(それを直接使うか、火打石として変えて用いるかなどということは関係ない)を確認する、
(ii)石について「あることに役立つ石」というような言い方をする(それを他人に向かって言うかとか、声を出して言いうかなどということとは関係ない)、
(iii)石のことについて「Fという機能を果し、Yという名称を持つ石」というような言い方をする。(ただし、そのようなものとして石を再び使用するかどうかということは関係なく、それが認められているということだけで十分なのである。)
引用:ウンベルト・エーコ『記号論I 』P56

これをプールでスケートボードをすることに置き換えてみると、次のようになる。

(i)サーファーがプールの新しい機能、つまり泳ぐための施設ではなくスケート・スポットとしての機能を確認する、

(ii)プールについて「(都市で)サーフィンの代替物としてスケートボードをする際に役立つ」というような言い方をする、

(iii)プールのことについて「波の代替物という機能を果し、スケート・スポットという新しい名称を持つプール」というような言い方をする。

次に文化が成立することについて、再びエーコを引用し置き換える。

石をどう使うかということがひとたび概念化されれば、石そのものがそれ自身の可能な使われ方をする具体的な記号となると考えるのである。それ故、このことはまた、ひとたび社会が成立するとすべての機能は自動的にその機能の記号に変えられると言えるかという問題である。ひとたび文化が成立すれば、このようなことも可能である。しかしまた、このようなことが可能であるからこそ文化が成立するのである。
引用:ウンベルト・エーコ『記号論I 』P59

プールをどう使うかということがひとたび概念化されれば、プールそのものが、のちにその「部分」を都市に求めるようになるスケート・スポットの「全体」であるという、それ自身の可能な使われ方をする具体的な記号となることを考えるのである。それ故、このことはまた、ひとたび社会が成立するとすべての「スケートボードで滑れる」というプールの機能は自動的にスケート・スポットという機能の記号に変えられると言えるかという問題である。ひとたび文化が成立すれば、このようなことも可能である。しかしまた、このようなことが可能であるからこそ文化が成立するのである。

――波は崩れてしまうため上へいくには限界があったが、プールを滑るスケーターは崩れることのないRを駆け上がりリップと呼ばれるプールの「フチ」を飛び出す。エアーの誕生だ。このエアーの誕生により「スケートボードに乗るサーファー」たちは「スケーター」になった。サーフィンの延長として滑られていたスケートボードはスケートボードにしかない動作を手に入れたことで「スケートボード」という独自の概念を確立し、それと同時に、プールも波の代替物からスケート・スポットになりサーフィンのためではなくスケートボードのために使われスケート・スポットという記号を獲得する。

今まで地面を滑るだけであったスケートボードが、プールの斜面であるRを駆け上がりそのままリップ(プールのフチ)を超えて空を飛ぶようになった。それは50年代カリフォルニア文化が花開いた時代に大勢の人が想像の中でしか味わえなかった「無重力」を、スケートボードが文字通り体現してみせたことでもある。

プールを波の代替物として都市でサーフィンをやろうとするのはスケートボードを手にしたサーファーしかいない。そのサーファーの間でプールでスケートボードができるということが概念化されれば、プールは泳ぐための施設からスケート・スポットという記号になる。そのようなものの使い方を共有する集団がいればそれはひとつの文化の集団であり、プールでスケートボードをするという使い方にはスケートボードの文化が現れているということができる。

以上のようにものの使い方には概念と文化があらわれる。都市でサーフィンの代替物としてスケートボードをしたことにより、サーフィンという文化の概念を都市に持ち込み対象を与えられた意味とは違う使い方をすることを可能にした。

ある文化の概念に所属する「このように使いたい」という欲求が、まったく関係ないほかの文化に属するものを欲求の対象とし、さらに、そのもの本来の使い方である「与えられた意味」に従うことなく「このように使いたい」という要求を優先させたとき、ものの新しい使い方が導かれるのではないだろうか。

サーフィンの文化の概念に属する「波に乗りたい」という欲求を、本来の対象である「波」ではなく都市にある人工物に向けたことによりプールの新しい機能を発見したことは、ある概念が所属する文化の場所とはまったく異なる場所で発揮されたことによる。そのようなことを可能にした要因は、欲求が所属する文化の概念がよその文化圏に侵入したとき新しい使い方を発見させるきっかけとなるためと考えられる。

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