『路上の言語』Skateboarding is not a Sport5

イリンクスと呼ばれる眩暈には、スケートボードではダウンヒルのような日常生活の中では体験できない恐怖と隣り合わせにあるようなスピード感、カービングやタイトなバンクにドロップインするときのような加速、ステアを飛び降りる落下などがある。

イリンクスとはこれらのような身体の分野だけでなく精神の分野にもあり、

突然人をとらえる忘我の激情がそれだ。この眩暈は、ふだんは抑制されている混乱と破壊の好みに容易に結びつく。それは、自己主張の粗野で乱暴な諸形態なのである。~略~これらの遊びは突然、急速に単なる喧嘩乱戦に変わってゆく。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P62-63

これらの「人をとらえる忘我の激情」の楽しさには、雪掻きの最中に大量の雪を雪崩のように落としたときや、ビルの発破を観たとき、また食器をわざと割るときなどに味わうことができる。いま述べたような光景を目の前で見ると、怖さとともにちょっとわくわくする気分を味わうだろう。この感覚が広く一般的に感じられていることについては、あるテレビドラマでストレス発散のために食器をゴミ捨て場で叩き割っているシーンが使われたことから証明ができる。抱えたストレスを発散するために表れた「自己主張の粗野で乱暴な諸形態」のひとつだ。

この点にイリンクスの本質がある。

ここで本質的なことは、眩暈という言葉が明確に示している、あの特殊な惑乱、あの一時的なパニックの追及にある。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P66

カイヨワは眩暈の遊びの本質について、眩暈という言葉が如実に表す特殊な、一時的なパニックを追及することにあるという。さらに、

遊びの疑いをいれない特徴――試練を受けるか拒否するかの自由、厳密で不変の限界、現実の他の部分からの隔離など――がまた、そこに一緒になくてはならない。さらに、この試練が見世物の材料にまでなるというのは、遊びの性質を弱めるものではなく、強化するものである。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P66

例えばジェットコースターは乗っている人間が楽しいのはもちろんだが観ている側も楽しいと感じるように(ミミクリ・模倣だ)、ある種見世物としての機能を持つ。それはカイヨワが述べるように遊びの性質を強化するものとして機能する。

以上が遊びの四分類になる。また、各遊びの中での垂直方向の分類をパイディア、ルドゥスという名で呼び、それは以下のようになる。

二つの相反する極に配置することもできる。一方の極においては、気晴らし、騒ぎ、即興、無邪気な発散といった共通の原理が、ほとんど例外なしに支配している。そこには統制されていない気まぐれといったものが感じられるが、私たちはこの原理を、パイディアという名で呼ぼう。反対の極においては、この奔放ないたずら気分は、消滅し、あるいは少なくとも馴致され、代わって別の傾向が現れる。~略~恣意的だが強制的でことさら窮屈な規約にそれを従わせ、一そう面倒な障害を設けてそれを縛る必要があるのは、それ(無秩序で移り気な性質)を安易に目標に到達させないためである。目標といっても全く無用なものに変わりないが、それでいて一そうの努力、忍耐、技、器用がなければこの目標に到達はできない。私はこの第二の極をルドゥスと名づける。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P44-45

例えば「笑う」という日本語は英語でlaugh、「興味深い」はinterestingだが、これらは「おもしろい」という一つの日本語で表す感情の傾向を二つの傾向に分けた言葉だ。「遊び」をこのように二つの傾向にわけたものがパイディアとルドゥスだ。

パイディア
この活動は幸福な活力のあふれるところ、どこでも発生する。その活力の現れは、直接的で無秩序な興奮、衝動的でたがのゆるんだ、とかく行き過ぎがちな気晴らしの中にみられる。即興的で不規則という特徴があくまでも、その唯一の存在理由とまではいわずとも、その本質なのだ。
動きたい騒ぎたいというこの基本的な欲求は、まず、なんにでも触り、手の届くすべてのものを掴み、味わい、匂いをかぎ、ついでそれを下に落とす衝動として現れる。それは、壊したり砕いたりする好みにかんたんに変わる。引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P68、P69

『直接的な無秩序な興奮、衝動的で』という部分、スケーターならよくわかるのではないだろうか。対象となる建築物に内在する社会の秩序よりも、滑りたいという衝動的な欲求を優先させ躊躇せず滑るその行動は直接的で無秩序な興奮に従っている。これらの行為は「たがのゆるんだ、とかく行き過ぎがちな気晴らし」と言われても仕方のない部分だ。

私が『棒馬としてのプール』の章で「エアーの誕生により「スケートボードに乗るサーファー」たちは「スケーター」になった。サーフィンの延長として滑られていたスケートボードもスケートボードにしかない動作を手に入れたことでスケートボードという独自の概念を確立し」たと述べたのは次の意味による。

一般に、パイディアの初期段階の種類の遊びには、名前のついたものがない。また名付けようもないのである。しっかりした秩序とか、明らかな目じるしとか、鮮明に他と区別される存在とかいったもの以前の段階だからである。他と区別される存在となってはじめて、特別な呼び名でその独立がみとめられるのだ。しかし、約束、技術、道具が使われはじめると同時に、特徴を持った遊びがはじめて出現する。馬飛び、かくれんぼ、凧あげ、独楽、滑走、鬼ごっこ、人形遊びがそうである。ここから、アゴン、アレア、ミミクリ、イリンクスのそれぞれ相容れない道が分岐しはじめる。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P70-71

エアーが誕生する前のスケートボードは「名付けようもない」ものであった。スケートボードという言葉は板に四つのタイヤがついた道具を指し示す名詞としての機能は持っていたが、「このようなことをする」という動詞としての意味は持っていなかった。

例えばけん玉という言葉は道具を現す名詞でもあると同時に、遊びとしてのけん玉とはこのようなことをするというように動詞としての機能も持つ。けん玉で遊ぶことを言葉にするとき、けん玉遊びと言わずともけん玉をすると言えばそれで通じる。サッカーや野球も同様であり、遊びを表す言葉は名詞であると同時に動詞でもある。

スケートボードとはどのようなことをするものなのかと問われればサーフィンの真似事としか説明できず、まだ「しっかりした秩序とか、明らかな目じるしとか、鮮明に他と区別される存在とかいったもの以前の段階」であった。滑っている当の本人たちはそんなことはない、と思うかもしれないがそれを説明する術がなかった。「鮮明に他と区別される存在となってはじめて、特別な呼び名でその独立がみとめられる」が、それはキドニー型プールで滑りエアーを手に入れたことによる。人間が手を使わずに脚だけで自分が乗っている板とともに空中に飛び上がり着地する。その間一歩も地面に足をつくことはない。場合によっては飛び上がっている際に板を水平、垂直方向に回転させることもある。スケートボードは「鮮明に他と区別される存在」として十分な存在になった。

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