doll題

【小説】01 幕開け


 人を人形に変えてしまう者達がいる。
 醜く生に縋る人間を弄ぶがの如く―――――


 彼女の足は逃げるためにある。
 まだ走れる。
 走れなくなったら、それは彼女が消える時。
 だから少女は、走り続ける。

「はぁ・・・はぁ、は・・・ぁっ」

 息を切らせ、顔を歪ませながら、それでも少女は懸命に駆け抜ける。
 すでに少女はパニック状態に陥っていた。
 腹部を押さえ、ひたすらに走る姿は、狂気にすら見える。
 彼女は今、生きるために逃げている。
 死にたくなかった。何より死を恐れていた。拒絶以上に。

「はぁ・・・や、死にたく、ない・・・死にたくないよぉっ・・・!」

 叫び終わると同時に一部突起した地面に足を取られ、横転した。
 鬼ごっこは、終わった。
 彼女は鬼に捕まる。そして迎えるのは・・・

 ――――死

 少女は恐怖で顔を引きつらせた。
 カツンと靴底の鳴る音が後ろで響くと、無条件に身体が硬直する。

「ふふっ。やっと足を止めてくれたわね」

 とろんとした声音に、背筋が凍る。
 ぎこちない動きで振り返ると、そこには狂喜するような顔があった。手には刃物を構え、破顔する女。
 若くも歳でもない、中途半端な年齢。
 女は持っていたナイフをぺろりと舐めた。口元が赤く染まる。
 その血は、その女のものではなく、少女のものだ。

「苦しいでしょう? まってて、今楽にしてあげるから」

 満面の笑みを零し、女は一歩一歩近づいてくる。それにあわせるように、少女も少しずつ後退する。

「そんなに怖がらないで。大丈夫。一気に殺してあげるから」

 正気ではない瞳。
 女はふらりふらりと安定悪く距離を縮める。

「っ! やめ・・・」

 少女は擦れた悲鳴を上げた。
 その恐怖する表情に、女は極上の笑みを浮かべる。

「冴が悪いのよ? お母さんの言うことを聞かないから」

 ナイフを構える。

「だから、処分しなくちゃね」

 表情は笑みを浮かべたまま、声は冷え切っていた。
 腹のそこから出したような低い声。感情など一切こもっていない。

「バイバイ、冴」

 振り下ろされるナイフ。
 少女の悲鳴は、音を立てずに虚しく消えた。

 しとしとと頬を伝うものは何か。
 少女はふと目を覚ます。
 それと同時に激痛が走り、呻き声を上げた。
 身体がいうことを聞かない。
 少女は必死に記憶を手繰り寄せた。
 確か、自分は刺されたはず。そう思いだして、どうやら助かったらしいことを理解した。といっても、このまま放っておいても死ぬのは確実だろうが。それが少し伸びただけのことで。
 少女はゆっくりと、肺に溜まった息を吐き出した。息をするたびに、激痛が走る。
 身体が重く、雨が降っているのか、体が濡れて寒気さえ感じる。

「っ・・・うぅ・・・」

 少女は泣いた。
 死にたくない。
 痛い。苦しい。
 いろんな想いが混ざり合って、耐えられなくて、苦しみもだえながら泣いた。

 ―――――死にたくない

 その想いだけが強く残る。

「助けてやろうか」

 突然聞こえた声。少女はそれに、とうとう幻聴が……と絶望した。

「答えろ」

 それでも、声は続く。
 それが幻聴でないとわかるまでに、少し時間がかかった。
 少女の前に忽然と姿をあらわした青年。彼の姿を認めて、微かな希望を抱く。

「お前が望むなら、助けてやろう」
「・・・けて・・・たす、けてっ」

 死にたくない。
 その思いが強くて、ただひたすら哀願する。
 痛いのも苦しいのも忘れて。
 例え嘘でもいい。
 気休めでもいい。
 何かに縋りたかった。縋れる何かが欲しかったのだ。

「いいだろう」

 男は軽く頷き、自分の手首をきった。
 鮮やかな真紅が吹きだす。息をするのも忘れるほど、その光景から目が離せなかった。
 普通、手首のあの場所を切ればただでは済まない。現に流れてる血の量だって半端じゃない。
 それでも、彼は平然と少女の傍に近づき、手首を彼女の口元に寄せる。

「飲め」

 一瞬、何を言われているのか解らなかった。
 反応を返せない少女に痺れを切らせたのか、男は自分の手首の血を舐めると、そのまま彼女の口を塞いだ。
 いきなり口付けされて、少女は思わず男の口から入ってきた血を飲んでしまう。
 唇が離れた。

「血に従え」

 男は即座に呟くと、少女の胸元に自分の血文字で印を刻んだ。そこが異常なほどに熱くなり、グッと息を飲む。
 吹き乱れた風が二人を包み込んだ。
 淡い光が溢れる。
 少女はその光に飲み込まれるように、意識を手放した。

*****

 この世界は四つの大陸から成り立っている。
 それぞれを東西南北にわけ、東の大陸を和(ワ)、西の大陸をウォン、南の大陸をエレウス、北の大陸をノーブル・スノゥと呼んでいる。
 随分と過去を遡れば、他にもたくさんの大陸が存在していたらしいが、この四つの大陸以外は呑まれるようにして海に沈んだ、と伝承にはある。それが事実であるのかは、誰も知る術を持たなかった。
 ここは、その四つの中でも一番荒廃が進んでいる、東の大陸、和だ。年々死者の数は増え、雨が滅多に降らないため、土地は大部分が枯れて干上がり、荒廃し、砂漠と化している。
 しかし、その滅多に降らない雨が、今この大地を潤していた。どれくらいぶりの雨だっただろう。
 忘れてしまうほどの月日には、人々は興味を示さなかった。ただ、降りしきる雨に歓喜するだけ。
 だいぶ勢いのおさまってきた雨の中、淡く光る球体を手に、青年が立ちつくしている。簡素な建物と建物の間。裏路地ともいえる場所で、ただ目の前にあるそれを見つめていた。
 うろたえるでもなく、取り乱すでもなく。ただ、冷静に。
 赤く染まった、少女の身体。いや、かつて人間だった少女の、だ。
 すでに死体であるその身体を中心に広がった、真紅。雨と混ざり合い、随分色の薄らいだそれは、けれど、決して濁ることはなかった。
 青年は言葉もなく立ちつくす。死体を隠すわけでもなく、また、弔うわけでもなく。
 青白く映し出された少女の身体の輪郭を、彼は目線だけで辿った。殆ど骨と皮だけの、手足。
 痩せたを通り越してやつれきった頬。粗末な衣服。
 少女のなりは、今この大陸で生活している人々と同じ。誰もが餓え、苦しみ悶えながら、そして死んでいく。ついに疫病までもが広がりつつあるこの大陸は、死の匂いを纏っていた。
 ふと、少女の哀願が脳裏をかすめる。
 『助けて』と必死に生に縋りつく少女。
 そのあまりの執着さに、彼は不快さえ感じた。
 この状況下で、なぜそこまでして生きようとするのか、と。今助かったところで、生きながらえる保証なんて、どこにもありはしないのに。

「愚かだ・・・」

 ポツリと零れた言葉は、少女に向けたものか、それとも自身に対してだったのか。
 雨に濡れながら、彼はふと淡い光を帯びた球体に視線を移す。その瞳は、漆黒に塗れていた。
 人の魂ともいえるそれを、青年はやすやすと手にとることができる。
 彼が異端であるが故。異質であるが故に。
 手の中に浮かぶそれは淡く、そしてどこか儚いものであるかのようだった。彼以外の者が触れれば、たちまち消えてしまいそうなほど、弱く、けれど美しい光を纏っている。
 死体は、動かない。
 青年はそれを一瞥すると踵をかえし、その場を去った。
 雨がやむ。
 次第に雲が晴れ、月光がのぞく。
 きらりと雨の滴が光る。風が舞った。
 死んだものは、甦らない。
 それが、この世の理。
 彼の手の中にある球体の光が、一瞬、鈍ったような気がした。

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