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言語化と、すうすう

誰もが気軽に発信できる様になった今。「言語化する」という言葉が少し引っかかる。

ことばは、すくうところを選ぶ作業の結果なので、捨てるところがでてくる。「すべて」を「同時」に言う事はできないからだ。

あんまり、「言語化」「しよう」と思って、きれいに整えていると、きれいに整いすぎる。そしたら、整えるために捨てられたものたちが追いかけてきそうで、心配だ。

それは、きっと、呪いになる気がする。あんまりきれいに整えたことばで自分を固めていると、きっとすうすうしてくるんじゃないか。自分の場合はそうだ。

だから、あんまり、整えようとし過ぎない方が良いと思う。物事にはいつだって、ふたつどころか、みっつもよっつも、色んな面があるからだ。

もちろん、文章の目的によっては、ばしっと決まった、伝わり易いわかり易いものがいい場合もある。

けれども、ことばが本当にうつくしかったり、ひっかかったりするのは、整いきれないところだと思う。意識の上にあるのではなく、はからずも滲み出してしまったところに、意外性があったり説得力があったり新鮮味があったり、むしろそこがオリジナリティーの「勝負どころ」だと思う。

まるでインスタ映えのように、ことば映えを狙わなくても良いと思うし、むしろ狙っていない方が好きだ。文章に、すかすか、とか、すうすう、とかあんまりしていて欲しくないなと思う。

マニュアル本や、自己啓発本、ビジネス本が、書店で跋扈しているこの頃なので、余計に思うのだけど、わかりやすい、はもうそろそろ私はお腹がいっぱいだ。SNSが発達して気軽に投稿できるこの頃なので、整えられたものにも、だんだんとお腹が膨れてきた。

むしろ、隠されたところとか、切り捨てられたところとかの方がずっと興味深く感じる。

自分がどう見えるか、どう見せたいか、から少し離れて、ことばを紡げるようになれたらいいなと思うし、そういうことばを聴きたい。滅多に出会わないけれども。。。

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