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いることをゆるされること 旅

クレジットカードのマイレージが貯まり、何に使う?ほんとはマイルで使うのが一番有利なんだよね、などと話しているうち、友だちに会ってきたら?と夫に言われた。今なら、仕事も忙しくないし、子どもみてるから。

沖縄。

断る口実も見当たらず、話の勢いで、飛行機の予約をしてしまったけれども、気が重かった。

学生の時以来の沖縄。

学生の時、ゼミの仲間と2週間ほど訪れて、沖縄の歴史に触れ、それぞれのテーマに沿って、実習をしてきたことがあった。当然、沖縄戦についても学んだ。中で多くの人々が自決をせまられたガマにも入った。私はパニックに陥った。

身体の中に、ものすごく強い悲しみが突然入ってきて、自分のコントロールがきかなくなってしまったのだった。自分の中が真空になってしまったようだった。

私の異変に気付いた友だちが、外に出して介抱してくれた。

私は若かった。無防備で、ぞんざいで、傲慢な、本土からきた学生だった。亡くなった人々の影に怯えながらも、若さと自由を謳歌して、沖縄での日々を過ごした。離島では、コンビニもない事を不満に思うほどには、馬鹿で浅はかだった。

そんな私も、それから長い年月を経て、人の親となった。あることから落ち込んでいた私を元気付けようという夫からのプレゼントの旅(おこづかいまで用意してくれた)だが、気持ちがどうしても浮かなかった。「子どもとこんなに離れるの初めてだから・・・」とため息をつくと、「それ何回聞いたかわからないよ」と笑われ、「ぐったりしてないで、楽しんでおいで。」と送り出してくれた。

子どもと離れるのも不安だったし、沖縄に行くのも不安だった。

沖縄本島で友人が出迎えてくれ、翌日、友人が仕事に行っている時間を利用して、竹富島に行ってみた。

自転車を借りる時に、お兄さんが地図を見せてくれ、行くのをおススメするところと行ってはいけないところ(「うたきって知ってる?神聖な場所で、地元の人でも入ってはいけないところなんだよ。」)を教えてくれた。

暑かった。自転車で浜辺にたどり着き、そこで待った。からだがその場所に馴染むのを。水を見たり、本を読んだり、ヤドカリを探したりしているうちに、からだが、その場所にだんだんと馴染む。それは時間のかかることだし、時間がかからないといけない。

お昼を食べに行くことにして、目当ての八重山そば屋さんを目指す。道中、薄暗く生い茂った草むらに鳥居が立っていて、その奥には恐らく何かがあるのだろうという場所があり、うたきだな、と思った。もちろん、入らないけれども、その前で自転車を停め、かみさまに挨拶をした。

さて、その後、走れど走れど、目的の場所につかない。とても暑くて、辛くて、そろそろ限界だという頃、何やら見た記憶のある光景になってきたなと思い始めてほどなく、それが確信に変わった。

また、うたきの前に出たのだった。挨拶をしたうたきの前に。

あ、ここのかみさまが、私をからかわれたのだな、と思った。本当に主観でしかないのだけれども(からだがその場に馴染むという感覚も本当に主観でしかないのと同じ様に)、私をゆるしてくれたのだな、と思った。ここにいることをゆるしてくれたのだな、それを示してくれたのだな、と思った。

それで私は、それからは安心して、沖縄の旅を楽しむことができた。かみさまは、ちょっとした遊び心で、私の緊張を解いてくれたのだろう。

沖縄は、やはり、本土とだいぶ違うのだが、人間が、かみさまと近い、という感じがする。

こんなに、自然の美しいところで、それはかみさまがおられないわけはない、と思う。

自分のからだを、そこの場所となじませること。それは、生き物としての感覚を思い出させてくれることじゃないかという気がする。

旅は、人間を、生き物に戻してくれる、儀式なのかもしれない、と思った。

生き物として、そこに在る/いるということ。

そして、そこに在る/いることには、やはり、ゆるす/ゆるされる、という感覚がついてまわる様に思うだけど、どうなんだろう。

それは、夏至の日のことだった。

その日のうちに、友人の家のある、西表島に移動した。友人の家の裏には、地質学者が大喜びしそうな隆起した地層のある、海が広がっていた。裸足で波打ち際を散歩すると、さっと逃げていくものがいて、それがうつぼで驚いたりした。

翌日の早朝、不思議な調べの唄が外から聴こえてきて、目が覚めた。私は、友人を起こさずに、海へ出た。そして、死者たちに祈った。

沖縄の慰霊の日だ。

戻って、友人に唄のことを聞くと、それは慰霊の日だからということではなく、豊穣の祭りがあるので、毎朝それが流れているということだった。

この旅自体、夫に提案されたものだったし、日程もいったん決めたのが用事で変更して、この日になったが、慰霊の日だという事は、その時点では忘れていた。

偶然、この年の慰霊の日に、私は、沖縄に連れてこられ、沖縄にいることを許されたのだった。なにかの存在が、そのようにはからってくださったのだ。

もちろん、偶然の話だ。けれども、私の中では、そういう主観があって、人間はどのみち、思い込みと主観の中で生きている。

何か意味があると思えば、ある。無いと思えば、無い。

意味があると思う程に、私はまだまだ傲慢なのかもしれないけれど。

旅は、違う場所に行くことで、身体と世界の透き間を少し空け、またあらたに馴染ませるという、生き物らしい行為だ。

そして、赦すということは、赦される、ということと、恐らく同じことなのだろう。その、赦されるという体験或いは、赦されたという思い込みは、生きることを、ほんの数ミリ、楽にしてくれる気がする。


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