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「オタク・イズ・デッド」と投票率

これは、リサイクル図書で頂いてきたもの。息子がこういうのが大好きで、ママ一緒に見よう、と擦り寄ってくる。

投票率が衝撃的だ。
第1位1890年(明治23年)投票率93.73%
有権者数 45万0872人
ワースト第1位1996年(平成8年)投票率59.65%
有権者数9768万0719人

古い本なので、ワーストでも59.65%もある。この間の参議院選挙では48.8%。今から見たら、このワースト1位の59.65%もあったら、すごい!ということになるだろう。

先日も投稿で触れた、岡田斗司夫の「オタク・イズ・デッド」だけれども、そこで岡田さんは、オタク第一世代、第二世代、第三世代の話をしていて、示唆的だと思った。

第一世代は、オタクが貴族主義である。一般の人は仕方ないよ、わからないんだもん、というところがある。そしてノブレス・オブリージュ(高貴な人は責務がある)の概念がある。ある意味冷たい。趣味の問題。

第二世代は、エリート主義である。俺は頑張って勉強したから、この作品が理解できる。お前がこれが理解できないのは勉強不足である。実力主義的。ある意味熱い。アカデミズムに擦り寄ろうとする。社会の問題。

第三世代が出てきた。第一の様に尊大にもなれず、第二の様に自信家にもなれず、そのどちらも用無しである。「私」の問題。切実なアイデンティティ。これがオタクという中心概念が存在しない。相互理解という幻想が無くなってしまっている。同時に「わかりやすさ」から入ってきて、わからないものは遠ざけたい。「萌え」。

そしてその後、オタクという共同幻想は無くなった。オタクの人々の声を代弁してくれたり正当化してくれる偉い人はいなくなった。〇〇が好きなワタシ。〇〇が好きな僕という個々人だけが残った。

この講座は2006年。オタキングを名乗っていた岡田さんが、共同幻想が無くなってしまった、オタクはおしまいだ、と、泣きながら宣言した。

これは完全に私の想像なのだけれども、オタクに限らず、この社会の中で、共同幻想は次々と解体されてきて、それは良い面もあるのだけれども、ひとりひとりにとっては辛い。みな、自分で、個を引き受けなくてはならなくなってしまったから。

その事が、例えばだけれども、ネトウヨ的存在(オタクと短絡的に結びつける訳ではありません。すみません。そうではなく、自分をカテゴリーに入れられなくて心許ない気持ち。)を生み出してきたということもあるかもしれない。

この心許ない世界の中で、どこでまとまれるか、ということで。「わたしたち」と「彼ら」の線引きが、やはりどこかでみな欲しいわけだろうから。

さて、この分類で思ったのは、政治における現象と似ていないかということだった。

選挙権は、もともとは限られた人たちだけのものだった(高収入の男性、全人口の1%)が、少しずつ拡大されていき、満20歳以上の男女に選挙権が与えられたのが、1945年。

最初は貴族的。そして、皆が選挙権を持てるようになってから、エリートのものになったのだ。努力して勉強して、政治家になれる、というモデル。

こういう経緯で、投票権は下がってきたのかもしれない。エリートのもの(第二世代)は、そうではない人(第三世代)には、敷居が高い、と。政治のエリート化が進んでいき、「わかりやすい」を求めるようになればなる程、「勉強すべき」からは心が離れてしまう。

そして、出てきたのが、「れいわ新選組」だった。

私は、例えば立憲民主党の中にも、とても好きな人が沢山いる。枝野さんもたってくれて、良かったと思う。でも、敢えて言えば、エリートから抜け出せてはいなかった様に思う。

そこを感じさせてくれたのが、「れいわ」の登場だった。

政策の内容以外に、着ている服(Tシャツや普段着)、街宣での話し方、候補者の立て方、これらは、言葉ではなく、メタのレベルで、「私たちはエリートではありませんよ。皆さんと同じ目線にいます。」というメッセージを発し続けたように思う。ポピュリズムと批判する声もあるかもしれないが、それはある意味、エリート側からの見方とも言えるかもしれない。街宣で語られる言葉だけではなくて、それらのメタレベルの総合的なメッセージが、これ程人々の共感を得る力を生み出していたと思う。

れいわが登場する前のこと。あさか由香さんを、事業をされている私より少し年上位の男性に薦めていて(元々の支持政党がどこであっても、今回はお願いしたいです、と)、消費税の話になった。彼は、消費税、上がったらきついよ、と話していた。それは、事業者としての辛いという話だった。10%に上がったら、消費が冷え込むだろうというのもあるけれども、自分が払わないといけない額ががくんと上がるということ。

それは、たった2%上がるという話ではなく、納税する額が1.25倍になるという話だから。今だって、自転車操業みたいになんとかやってるのにねえ、と言っていた。切実だと思った。

政治ってなんだろうか。
理論上の正解を決めるためのものか?

私が思うのは、多くの利害がぶつかり合う中だからこそ、最適解を求めるためのものじゃないか、ということ。抽象と具象は、やはり違う。見渡せば、お金のことで困る人が増えている。今だったらやはり消費税のことで困る人が多い。だったら、そのことを何とかするために、知恵を出し合って方法を探していこう、というのが、あり方ではないだろうか?

財源がない、というのは、私にとっては言い訳に思える。それは財源がある、というのと同じく、「言い切れる」のは、何を信じて?と思うから。

そうではなくて、こういうふうな困りごとがある、では、どういう方法がいいのか、探していこうという、形が私自身は好きだ。今回、思った以上に票を集めたのだとしたら、そういう姿勢を人々は、「れいわ」に感じたのではないかと思う。

例えばだけれども、今回、立憲民主党の票が、れいわに票を取られたというデータもあるかもしれないけれども、それで苦々しく思っている人もいるだろうけれども、それ以上に感じ取れるものがないだろうか?私はまだ、票に現れていない何かも、あるかもしれない、と思う。(票を割るだけという言い分はわかるけれども、それは前に立憲民主党に対して言いたかったことでもあるわけで。)

私自身は、岡田信者でもなければ、アニメが好きなわけでもなければ、支持政党もない(支持しない政党はあります)。

ただ、新しいフェーズに入りつつあると感じる。それが尻すぼみに終るのか、展開していけるのかは、まだわからないけれども。

あと、私は信者にはならないけれども、日本人は山本太郎に、負ったことがあると思う。彼のお陰で、重度障害者をいきなり二人も国会に送れたことだ。この事をポジティブに思う人もいれば、ネガティブに捉える人もいるだろう(私はポジティブに思う)。それでも、少なくとも、人権を大切にしようという国際社会における共通認識に照らして、これは評価されるべきことで、おかげで「良い」印象を日本は与える事で、ネガティブに捉える人もひっくるめ、日本人は「負った」。

確か、サッカーの国際試合で日本人サポーターが試合後ゴミ拾いをしていたこと、それが国際的に評価されているということをニュースで何度も取り上げていた様に思うが、少なくともそれよりずっと、すごい事だ。

あと、仮に政権を取ってしまって、それがめためたで、以前の民主党の様に、人々に悪い印象を与え、結果的に悪い事になってしまわないかという心配がある。
これは、もう、政権が変わらなくても、これから悪くなる、という事を、今から周知しないといけないのでは、と思う。マイナスのことは、人々は、余り耳には入れたくないかもしれないけれども。

この意見を嫌う人もいるだろうけれども、思うことを書きました。


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