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良寛と貞心尼その2

常盤台の曹洞宗寶龍山 洞雲寺に日本3大女流歌人の一人貞心尼の墓がある。寛政10年(1798年)長岡藩士(25石 御鉄砲台師)長岡・荒屋敷 奥村五兵衛(嘉七)の娘として生まれ、俗名マスといったのは既に書いた。(以下は現地でのWeb上の記事を参考とする)
 マスは幼くして母親と別れ継母に仕えた。賃糸を取り親の前へは毎日言いつけられた分だけ出し、余った金で筆墨紙を買った。
 また、囲炉裏の灰に字を書いて学んだ、学問好きの少女だった。

文化5年(1808年)マス12歳の時「海が見たい」と知り合いの女性に連れられて、柏崎へ遊びに来た。
 そこにあった薬師堂の庵主は留守だったが、庵からは柏崎全町が望見できた。
マスは「こんなところで学問をしたいものだ」と気持ちを吐露するかにつぶやいた。
 海をみに連れ出してくれた女性は幼くして死別し継母に育てられたマスを可愛がり、マスも「うば」と呼んで慕っていた人だった。
 当時の柏崎は桑名藩の陣屋があったが城下町ほど上からの規制が強くなく、水陸交通が盛んで、町人文化が栄え、武家育ちのマスは、自由開放の雰囲気を感じたのだ。

 文化11年(1814年)マス17歳の時小出島の医師 関長温に嫁入りした。

関長温は、北魚沼郡堀之内(竜光村)の庄屋、酒造業下村清三郎の子、後に小出在古水の関道順の養子となる。医者となり小出島北本町大門に借家して開業していた。

 マスは結婚後も本を読んだり、歌を詠んだりしていた。器量は良かったが、愛想がわるく気位が高く近所の評判が良くなかったという。長温との仲は子供も出来ずうまくいっていなかったらしい。
 夫である関長温とは死別説もあるが、長温が他の女性と駆け落ちしたのでやむなく離婚したとも言われ詳細は不明である。

 ともあれ、生家に戻ったマスは、婚家での生活も彼女の希望通りとも行かなかったことことから、出家こそ学問への希望を叶えるただ一つの選択肢と決断した。
 幼くして母親と死別した人生の無常感と好きな学問を思い切りできるという事情が彼女の決断をささえた。

 父五兵衛はその決断を拒み再縁を勧めたが、マスの意志は固かった。マスの継母が、「出家をすれば禅寺では、三度々々がお粥に一菜くらいなもの。その辛抱が出来るか。」と言って粥ばっかり食べさせたが、マスはそれに一言の不平を言わなかったという。

 封建社会の武家の娘として生まれ育ち、文学に生きようとするには、出家するしか方法がなかった当時の日本では女性の自立は最も困難なことであった。
 マスの場合は、身内に燕の萬能寺和尚がいたり、寺の再建の金主になった人がいる家庭事情や柏崎の薬師堂を見聞したことが、出家への道を可能としたのだろう。

 文政 3年(1820年)マス23歳の時(文政 5年25歳ともいう)知人の親を頼り柏崎に出てその人の世話で柳橋関矢源次郎方に世話になった。
 中浜の薬師堂を尋ねたが、庵主は留守。しかたなく下宿村新出の山懐にあった、浄土宗西光寺の末寺閻王寺に行き、沙彌尼として剃髪して貞心尼となった。

 閻王寺には心龍、眠龍の姉妹の尼僧がいた。姉心龍は一度嫁いだことがあり、温順な性格だったが、妹の眠龍はかなりヒステリックだった。(この姉妹尼は柏崎の旧家鳥屋中沢家の出で、後に貞心尼の剃髪の師となる洞雲寺の泰禅和尚の姉に当たる。)

 閻王寺は本尊は阿弥陀如来だが、寺の名のとおり閻魔大王像があった。この寺は心龍・眠龍両尼が柏崎の釈迦堂に移ってから廃退した。

 ここでの修行は「心龍は頗る道徳堅固、資質極めて峻厳」「貞心尼はその家風を慕い、好んで随身せられ寧ろ苛酷とも可申仕付けを受けたる由」(鳥屋中沢家中沢宗二郎の手紙)や弟子の高野智譲尼の話からかなり厳しいものがあったことがうかがえる。
 若くて器量よしの下働きの彼女を村人達は「あねさあんじゅ」と呼んだ。

 修行して一人で托鉢に出られるようになると、良寛の歌や漢詩に書に関する情報に接する機会があり学問や仏法の師として強く印象付けられたのだろう。

 文政10年(1827年)頃貞心尼(30歳)は古志郡福島村西村(現在長岡市)の閻魔堂に移り住む。

 貞心尼の弟子智譲尼の話では、「米油のあるうちは坐禅看読等のみにふけり。米油が無一物になれば、富島、亀貝、小曽根の村々を托鉢した。」といい、また、「庵室は台所の道具に事欠き、村の者が講などで庵室に来るに、茶碗を持ち箸を髪にさして来た。」という。

 文政10年(1827年)卯月(旧暦4月)15日付で島崎村(現在和島村)能登屋元右衛門の妻宛に「当分柏崎へは帰らぬつもりにて、幸いこのほど福島と申すところに空庵の有候まま当分そこを借りるつもり…」と手紙を送っている。

 能登屋元右衛門が良寛を国上山麓乙子神社脇の草庵から引き取ったのが前年の秋。貞心尼が能登屋と接触したのはそれ以前からだったらしい。

 能登屋だけでなく、井鼻の石井神社神職橘屋馬之助宅にも、下宿村閻王寺時代から貞心尼は出入りしていた。
 福島の閻魔堂にに移り住んだのは、生家に近い事もあったろうが、高名な良寛の弟子になる準備だったと見る向きもある。
 学問好きの少女だった貞心尼自身は、文学の造詣でも、佛道の修行でも、書でもかなりの境地にに進んでいた。

 福島から島崎までは、蔵王の渡しで信濃川を渡り、与板を通り塩入峠を越えて島崎に至る1日かかりの道のりだった。良寛の弟子遍澄が雪が降る前に、良寛を乙子神社脇の草庵から、能登屋へ連れてきたのも、良寛の高齢を心配してのことともに、能登屋と共に良寛に貞心尼を逢わせる準備だったかもしれない。
良寛はそんな周囲の気配を知ってか、能登屋の小庵が狭いなどと言って、寺泊の密蔵院に行ってしまった。

 さきの貞心尼の卯月15日付能登屋元右衛門の妻宛の手紙には続いて、「いずかたに御座なされ候やらん、やがてまたあつき時分は御かへり遊ばされべくと存じ候へば、どうぞそのみぎり参りたきものと存じ参らせ候」とある。貞心尼は、この頃弟子入りのため良寛に逢う機会をうかがっていた。

 貞心尼は島崎能登屋を尋ねたが良寛がまだ帰っていなかったので、良寛に和歌をつけて手毬を贈った。夏も過ぎ帰ってきた良寛は貞心尼に和歌を返した。こうして良寛と貞心尼との交流が始まる。

 文政10年(1827年)秋、貞心尼30歳、良寛70歳の時、島崎能登屋(木村家)邸内の小庵で貞心尼は初めて良寛に逢うことが出来た。以来3年あまりの短いが暖かく心の通った師弟関係が続く。

 文政11年(1828年)初夏、良寛が福島閻魔堂に貞心尼を訪ねたと伝えられている。

 秋に貞心尼が良寛を訪ねる約束になっているのに10月になっても音沙汰がないので、良寛は「霜月4日」付の手紙で問い合わせている。
このとき貞心尼は、柏崎・閻王堂にに帰っていた。いろいろ事情があったらしい。

 同年11月11日寺泊夏戸の本光寺で歌会が開かれ、その参加者に良寛、貞心尼、貞心尼の外護者である柏崎薬種商方寸庵静里の名がある。
翌12日は三条大地震がおきている。

 文政12年(1829年)3月頃、貞心尼は福島・閻魔堂に戻った。

 文政13年(1830年)春、良寛と貞心尼は与板山田家で落ち合う。

 同年8月18日付地蔵堂中村家で書いた良寛から貞心尼宛の「福島・閻魔堂を訪れる約束を果たせない。」という書状が遺されている。

 天保元年(1830年)12月下旬、良寛危篤の知らせで、貞心尼は島崎へ急行。良寛を看病する。

天保2年(1831年)1月6日良寛示寂。

天保6年(1835年)5月貞心尼38歳 師良寛の歌をあちこち訪ね歩いて集め、良寛と詠み交わした歌を書き添えて、良寛歌集「はちすの露」にまとめた。

これは良寛和尚を後世に伝える貴重な文献になった。

天保9年(1838年)乾堂孝順尼(長岡・荒屋敷広井家の出)が弟子となる。

天保9年(1838年)4月15日 心龍尼の妹眠龍尼示寂。 (この後貞心尼は長岡・閻魔堂から柏崎・釈迦堂に移ったらしい。)

天保11年(1840年)6月28日 貞心尼の最初の授業師である心龍尼円寂

天保12年(1841年)3月貞心尼44歳 正式に洞雲寺25世泰禅和尚より得度を受け、釈迦堂の庵主となる。

 釈迦堂は、荼毘場に至る小路(荼毘小路)の側に(現在東本町一丁目)立っていた釈迦の銅像を本尊として、正貞尼(1777~1862年)が一堂を建立したものである。
貞心尼が庵主となってから、この庵は柏崎の文化人達の道場であり、楽しい遊び場になった。貞心尼は多くの人々から敬愛され、歌会等には欠かせない人となっていた。

 弘化4年(1847年)8月12日 長岡・福島から連れてきた弟子智徳明全尼没。

 嘉永4年(1851年)4月21日貞心尼(54歳)が長岡へ出かけている留守に大火があり釈迦堂を焼失。このときの様子は「焼け野の一草」に記されている。

 良寛和尚との往来文書はこのとき焼失したものと思われる。「はちすの露」は貞心尼が肌身はなさず持っていたためか焼失を免れてた。

 一時広小路妙蔵寺内の観音堂に身を寄せていたが、歌の友であった山田静里を初め、多くの人(関矢、下山田、小熊、市川、星野、西巻諸氏等)の寄進により、広小路真光寺脇に新しい庵を建てて貰った。

その庵は8畳と4畳の狭い庵で、施主山田静里によって「不求庵」と名付けられた。「求めずして自ずから得る」と山田静里は説明している。

 安政6年(1859年)謙外智譲尼(長岡・荒屋敷高野家の出)が入門。後に再建された釈迦堂の庵主となる。

 文久3年(1863年)天保12年~文久3年(貞心尼44歳~66歳)に詠んだ貞心尼自筆の歌集「もしほくさ」が、柏崎・大久保 極楽寺の門外不出の什物として残されている。
貞心尼が当時の住職静誉上人に贈ったものと見られている。

 慶応元年(1865年)暮、上州・前橋の龍海院蔵雲和尚が、良寛和尚の詩歌集を出版するため貞心尼を訪れる。その後手紙の往復があった。

 慶応3年(1867年)江戸の尚古堂から「良寛道人遺稿」が刊行される。

明治5年(1872年)2月75歳貞心尼没 病気は俗に言う水気。

病気が重くなってきて、次の二首を残している。

 いつまでか長きいのちとわびにしも今はかぎりとなりにけるかな

 玉きはる今はとなればみだ佛といふよりほかにことの葉もなし  七十五歳 貞心

死の前日主治医八代文郷が「何か言い残すことは…」と尋ねたら「何もいい置くことはありませんが、わたしが死んだら、あの柳の木の下に大きな釜を据え、豆腐のおからをうんとこしらえて、町中の犬に腹一杯振る舞ってやって下さい。」と言ったという。

臨終の4,5時間前に、次の一首を弟子達に示した。

 たまきはるいまはとなれば南無佛といふ外にみちなかりけり

貞心尼の墓には、示寂の前日弟子達に示した、もう一つの辞世が刻まれている。

 くるに似てかえるに似たりおきつ波たちゐは風の吹くにまかせて

智譲尼の話では、「わしらは、庵主さんほど器量のえい尼さんは、此の年になるまで見たことがありませんのう。
何でもそれは目の凛とした、中肉中背の、色の白い、品のえい方でした。
 わたしの初めておそばに来たのは、庵主さんの62の年の5月14日のことでしたが、そんなお年頃でさえあんなに美しくお見えになさったのだもの、お若い時分にはどんなにお綺麗だったやら…」

またこんなことも言う。「庵主さん程立派な人は見たことも無いが、お経声の悪いこと、あんな人もないもんだ。」

 それなのであろうか、晩年にはめったに他所へ行って読経されなかった。須磨琴という一弦の琴を弾いてそれに合わせてお経を読んでいました。

戻る文政十年の四月十五日頃、良寛がいつも子供たちと手毬(てまり)をついているということを聞いていた貞心尼は、手毬を持って島崎の木村家庵室の良寛を訪ねた。

 しかしながら、良寛は寺泊の照明寺(しょうみょうじ)密蔵院(みつぞういん)に出かけており、不在だったのです。そこで貞心尼は次の和歌を木村家に託して良寛に渡してもらうことにしたのです。          

お師匠様(良寛)はいつも手毬(てまり)でこどもたちと遊ばれるとお聞きして、手毬に添えた歌                                               これぞこの 仏の道に 遊びつつ                                             つくや尽きせぬ 御法(みのり)なるらむ  (貞心尼)                          御法とは仏法のこと

 六月に貞心尼からの手毬と和歌を受け取った良寛はは貞心尼に次の歌を返しました。

 御返歌
つきてみよ 一二三四五六七八(ひふみよいむなや) 九(ここ)の十(とを) 十とおさめて またはじまるを  (良寛)

この歌の「つきてみよ」には手毬をついてみなさいという意味と、私についてきなさいとかけた言葉である。

以上事実関係を羅列したが良寛と貞心尼の師弟関係を平たく書けばこんなことなのだろう。
子供とまり遊びに興じ、粗末な庵に暮らす良寛。その生涯は修行の明け暮れ、恋とは程遠いような良寛ですが、晩年になってひとつの恋心が芽生えます。
恋といっても、世情言うようなものではありません。良寛のお相手は、良寛に弟子入りを申し込んできた、美しき尼僧、貞心でした。
貞心は寛政10年(1798)の生まれ、一方の良寛は宝暦8年(1758)の生まれ。なんと二人の歳の差40です。

およそ恋とは無縁に見える老僧良寛と、良寛の孫ほどの若さ、そして美しさをもつ貞心とが、いったいどのような恋を育んだのか。心弾む憶測です。

恋に煩い、恋に悩む現代人のヒントとなるかもしれません。
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