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オランダおイネ その2

二宮 敬作という男がいる。彼は、江戸後期の蘭学者・医学者である。シーボルトに師事し鳴滝塾でオランダ語を学んだ。文政9年(1826)、シーボルトの江戸行きに同行し、測量器を用いて富士山の高度を日本で初めて測量した男でもある。

二宮啓作は真面目な性格と師であるシーボルトを敬愛していた。
文政11年(1828)にシーボルト事件が起き、シーボルトは長崎を去るが、敬作は弟子の高良斎(こうりょうさい)とともに漁師に変装して小舟に乗り、シーボルトを見送った。

この時に、シーボルトは娘イネの養育をこの男に託した。
余程信頼してのことであろう。
その後、敬作は事件に連座し、半年の入獄ののち、江戸立ち入りを禁止され長崎からも追放され、故郷・磯崎に戻った。

天保元年(1833)、宇和郡卯之町で町医者となり、イネを呼び寄せ養育したのであった。安政5年(1858)に再び長崎へと赴き、開業医となった。

安政6年(1859)、長崎に再来日したシーボルトと再会した。シーボルトは産科医を開業している娘イネをみて、敬作の義侠に感動して涙したという。

その後、母親お滝は日本人と再婚してシーボルトとの縁が切れた。
娘イネは父親の影響もあってのことだろう、また当時稀であった混血児への差別もあり医師として身を立てる決心をした。

シーボルトからイネの養育を託されていた二宮は、出身地である宇和島へイネを呼び寄せ、医学の基礎を教育したことは既に述べた。

その後、イネは彼の勧めから石井宗謙のもとで産科を、維新の英傑として名高い長州の村田蔵六からオランダ語を教わります。
しかしこの石井宗謙はとんでもない男だった。父親の高弟である石井宗謙のもとで産科医としての修業に入ったが、義に篤かった二宮啓作と違い石井宗謙は品性が下劣であった。

あろう事かイネを強姦したのだ。
強姦されて、タダ(後に、お高、高子)を産むに至った。

その事件が起こったのは、おイネが25歳、宗謙が56歳の時のことであった。しかも、イネは処女だった。

宗謙は、妻のシゲ以外に2人の妾をかこっていながら、それでも飽き足りずにイネを犯した。
日頃から口癖のように師を尊敬している。師の恩を忘れないと言っていながら妾と同じように自分を見ている宗謙をイネは許せなかった。

屈辱感と羞恥で、身がふるえた。宗謙は、シーボルトを師として尊敬していると口癖のように言い、師の恩を忘れられぬ、とも言っている。そうしたことを口にしている宗謙が、師の娘である自分をなぜ凌辱したのか。それは、師の恩にそむく行為ではないかと生涯、宗謙を憎み続けたものの一人娘の父親だったことが生涯彼女を苦しめた。

宗謙は師匠のシーボルトの娘に手をつけて、他のシーボルト門下生から破門同然の制裁を受けている。これがイネにとっての唯一の救いであったがこの事件後彼女は生涯独身を貫いた。

混血児だからと蔑まれないよう己を律ししてきたが、その操は暴力で踏みにじられた。その上ただ一度の強姦により彼女は未婚のまま一人で出産しなければならなかったのだ。
生まれてきた子は私生児だ。
「天がただで授けたもの」という意味で、タダと罪なき子に名付けたのは彼女の無念さからだろう。

後年、タダも母と同じく宇和島藩主、伊達宗城により改名を指示され、「高子と名乗った。事情を知った宗城が不憫と思ったのだろう。
混血児であったイネの血を引いた高子はとてもキレな娘となって成長した。


イネは、このほかにも複数の師から医学を学び、イネは日本初の女性産科医としてのキャリアを歩みはじめます。

当時の日本では、産婦人科の医学は浸透しておらず、お産は汚らわしいものとして扱われ、不衛生な小屋で隔離されて行われることが常識でした。
イネは西洋医学を学んだ医師として、日本の女性たちに科学的な見地に基づく出産を説き、日本における産婦人科の発展に多大な影響を与える人物へと成長していきます。


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