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大山捨松 その一

幕末会津藩主松平容保は京都守護職を拝命した。
会津藩はその祖、保科氏が家康からの由緒正しい血統であったことから実直にも徳川に殉じた結果、家臣の多くを死なせた。その中には彼の白虎隊の悲劇もあった。

容保は京都では新選組を預かりテロ活動を助長し、新政府軍に刃向かい多くの損害を出した罪で死罪を命じられたが罪一等を戦後減じられた。

薩長と対立し、鳥羽伏見戦、会津戦争へと激動の時代に多くの家臣やその家族が知らずのうちに巻き込まれていったのだ。

山川さきも、その巻き込まれた女性の一人である。

山川さき(山川咲子、大山捨松)は、1860年2月24日、会津藩の国家老・山川尚江重固(なおえしげかた)と、母は会津藩家臣・西郷近登之の娘・山川えん(山川艶)の娘として誕生した。

2男5女の末娘で、幼名は「さき」。しかし、山川さきが生まれる、約1ヶ月前に父・山川尚江重固は病死しており、幼少期から15歳位までは、祖父の山川兵衛重英(ひょうえしげひで)と、母・えん に育てられた。

会津藩の山川家は1000石で、会津藩の祖である保科氏が高遠にいた頃からの古い家臣である。

山川えんは女子にも学問をさせるなど教育熱心だったようだ。そして、山川さきが15歳の頃、兄である山川大蔵(おおくら)後のが父親がわりとなった。

1868年8月23日、板垣退助・伊地知正治らが率いる新政府軍が会津城下に迫ると後の新島襄夫人山本八重らが城に入ったのと同じように、山川さきも母・山川えんら家族と共に会津若松城に籠城した。

籠城戦の際、兄山川大蔵の妻・山川トセ(山川登勢)ら山川家の女性は、照姫
の警護をして側に仕えた。

兄・山川大蔵は彼岸獅子での行軍で見事入城した後、会津藩・軍事総督(本丸防衛担当)に就任。

山川大蔵の母・山川えん(山川艶)が、籠城女子の総取締を担当した。梶原二葉(山川大蔵の姉25歳)も子供の梶原景清(3歳)を伴て入城した。

幼子を携えての一族総出の入城は藩祖保科氏の系譜に繋がる1000石の大身、山川家の誇り高い武士の気概があったからである。

新政府軍の砲撃が激しくなると、山川大蔵の妹・山川さき(8歳=後の山川咲子、大山捨松)や山川トセ(山本大蔵の妻で旧姓・北原登勢)は、濡れた布団や着物を持って「焼玉押さえ」に奔走した。

焼玉とは当時戦争に使われ始めた二種類の砲弾の一つで炸裂弾と違い火災を引き起こす砲弾だ。
攻城用には砲撃効果の高い砲弾であった。
飛び込んだその焼き玉が炸裂する前に濡れた布団等で破裂を防いだというのだ。当然危険な行動で実際には犠牲者も出た。

城内は婦女子を含めた総力戦となりまさに地獄のような光景が繰り広げられていた。

この「焼玉押さえ」の少女が後の鹿鳴館の華になろうとは誰が予見しただろうか。しかもこの攻城戦砲撃の指揮を執ったのが薩摩の大山巌で後の捨松の夫であった。

この運命的歴史を紐解けば、先ずは、さきの夫となった大山巌であるが
彼は近代日本初の砲兵指揮官であり、当時有数の「大砲のプロフェッショナル」だった。

フランス製の大砲を自ら改良し再設計するほどの俊才であった。しかし彼の名を歴史にとどめたのは、日本の興亡をかけた日露戦争でロシアと対峙し見事勝利した日本陸軍総司令官としてであった。

ロシアとの戦争の是非を問わなければ、日本人にとって彼は英雄そのものである。
極東への覇権を求める当時のロシアは中国は満州、朝鮮半島、そして日本をその勢力下に置くべくいわゆる南下政策を推進していた。
満州へは自国領土からの鉄道を延長させ、日本が日清戦争により割譲した旅順や遼東半島の租借権を奪い取って一大要塞を建設したのだ。
朝鮮へは武力による内政干渉を計り朝鮮半島を自国の生命線とする日本を刺激していた。
今のロシアがそうであるように、この国は領土拡大が建国の国是のようで、周辺国の独立や自主を奪い取るのは歴史の常とう手段であった。

もし、日露戦争に敗れていたら今の日本はウクライナと同じ憂き目を見ていただろう。その意味で独裁専制の国、ロシアから日本を守ったのが大山巌といってよいのだろう。

さき・捨松は若松城で、いたいけな少女ながら命がけで焼玉の消火を行っていた人物である。大山巌は攻撃軍の砲兵隊長。恩讐を超えたこの不思議な縁、結びつきは明治という時代が生み出した特異なものといえるのだろう。そしてこの少女は見事に自分の運命を大山との結婚で昇華したのだ。

かつて濡れた布団を持って城内を駆け回っていた少女が「鹿鳴館の華・大山捨松」として海外にもその名を馳せたその内幕に触れてみよう。

会津藩降伏後、会津23万石は改易となり、1年後に改めて陸奥斗南3万石に封じられた。
この間に祖父重英は病死し、長兄浩が藩の重臣となったが、この地は下北半島最北端の不毛の地で、3万石とは名ばかり、実質石高は7,000石足らずしかなかった。
飢えと寒さで命を落とす者も出た。
困窮は山川家でも同じで、末娘のさきは海峡を越えた北海道に里子に出された。その縁でフランス人の家庭に引き取られ後アメリカ人宣教師に預けられたという。

明治4年アメリカへの視察旅行から帰国した北海道開拓吏の次官で後の総理大臣黒田清隆は、数人の若者をアメリカに留学生として送り、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせることにした。

黒田は男尊女卑の気風はなただしい薩摩出身でありながら一種の英明さを備えた軍人であった。
彼はアメリカへ視察時に西部の荒野で男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人女性にいたく感銘を受けたという。留学生の募集は当初から「男女」若干名という例のないものとなった。

開拓使のこの計画は、やがて政府主導による10年間の官費留学という大がかりなものとなり、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行して渡米することが決まった。

この留学生に選抜された若者の一人が、さきの兄・山川健次郎である。
健次郎をはじめとして、新政府軍と戦った戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた東北諸藩の上級士族の中には、この官費留学を薩長憎しを胸に秘めた屈辱を果たすべきものとして、子弟を積極的にこれに応募させたのである。

今の日本での女子短期留学を含めればその数は男子を凌ぐだろうが、当時は女子の応募者は皆無だった。
女子に高等教育を受けさせることはもとより、そもそも10年間もの間うら若き乙女を単身異国の地に送り出すなどということは、とても考えられない時代だったのである。

しかし、さきは利発で、フランス人家庭での生活を通じて西洋式の生活習慣にもある程度慣れていた。また、いざという時はやはり留学生として渡米する兄の健次郎を頼りにできるだろうという目論見もあって、山川家では女子留学生の再募集があった際に、満11歳になっていたさきを思いきって応募させることにしたのだ。

この時も応募者は低調で、さきを含めて5人、全員が旧幕臣や賊軍の娘で、全員が合格となった。

母のえんは、懐剣を渡し、「今生では二度と会えるとは思っていないが、てたつもりでお前の帰りを待って()いる」と述べ「捨松」と改名させたのだ。当時の寡婦といえども武家夫人の意気込みが偲ばれる話だ。
くしくも捨松がアメリカに向けて船出した翌日、大山巌も横浜港を発ってスイスへと留学した。

その二へ




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