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徳川家康 第二部 その四

私はこの徳川家康シリーズを書き始めた時徳川家康は名将というより稀代な政治家と言ったらいいだろうと書いた。この言葉を女性に使えば三代将軍家光の生母とも乳母ともいわれる春日局(福)そのものであろう。

徳川幕府第3代将軍徳川家光の乳母として有名ですが、その他に江戸城大奥の創設者としてもよく知られている。春日局は、本能寺の変で織田信長を自害に追い込んだ明智光秀(以下光秀)の腹心で、実行責任者として京の六条河原に首を晒された斎藤利三(以下利三)の娘です。

それが将軍跡継ぎの家光の乳母(実母)になったのも不思議でしたし、その後江戸時代きっての女性政治家になり、従二位の官位にまで上り詰めたのも不思議なことです。

福は、天正7年(1579年)、明智光秀家臣斎藤利三稲葉一鉄娘安との間に、当時利三が守っていた丹波黒井城下で生まれたとされています。

福は、本能寺の変後利光が六条河原で処刑された後、美濃の祖父稲葉一鉄が引き取り、その後稲葉重通が養女として育てたと言われています。重通は秀吉に仕え伏見に移ったようなので、そこで福は、和歌などの高い教育を受けたと思われます。

春日局(お福の方)は初代臼杵藩主稲葉貞通の父、稲葉一鉄の長男重通の養女である。『御家系典』という稲葉家の系図によれば、春日局は慶長8年(1603)の春、夫林正成(稲葉正成)と離別の後、臼杵の二王座の地に帰ってきたとされている。

その後、子らと共に江戸城に上り、将軍秀忠の侍女となった。大層美人であであったことからお福は将軍の目にとまり慶長9年7月、竹千代(家光)を生んだ。

しかしながら、父利三が光秀と共に織田信長を討った理由で竹千代は秀忠夫人の子と披露されたと記されている。お福が家光の乳母となり江戸城大奥で権勢をふるった春日局となった経過は興味深い話である。

一方夫であった稲葉正成は、重通と共に秀吉に仕えていましたが、秀吉養子の豊臣秀秋が毛利一族の小早川隆景の養子となり小早川家を継いだため、秀吉の命で秀秋付きの家老(5万石)となります。

その後、小田原攻めで活躍し、慶長の役(朝鮮出兵)にも秀秋に従って出兵しています。

そして、1600年の関ヶ原の戦いで家康に恩を売ることとなります。それは、関ヶ原の戦いの結果を左右することとなった小早川秀秋の家康方への寝返りを主導したからです。

正成が家康への寝返りを主導した原因は、朝鮮で山城の救援に駆け付けた際、小早川秀秋が先頭を切って敵軍に攻めかかったことを、石田三成配下の軍目付から秀吉に大将として軽はずみな行動だったと報告され、秀秋は肥前名島30万石から越前北ノ庄15万石への減封転封を言い渡されたことで、三成に恨みを持っていたこと、また家康は秀吉が下した秀秋の転封処分を取り消したことから、家康に恩義を感じていたからでした。

これにより、関ヶ原の戦い後秀秋は、肥前名島から岡山55万石へ加増転封となりました。

しかしこの後秀秋は、世間から裏切者と言い続けられたことから、裏切りを主導した稲葉正成と不仲となり、正成は美濃に蟄居しました。その後秀秋が死去して小早川家が断絶になると、正成は浪人の身となります。これを知った家康が正成を召し抱えるべく動いたのです。

当初、家康の狙いは福ではなく、稲葉正成だったようです。しかしここで家康は、正成の妻で当時まだ23歳(1579年生)ながら男子3人を生んでいる福に注目します。

慶長7年(1602年)秀忠の正室が子供を産みますが、女子であり、江はその年29歳(1573年生)ともう今後子供を産むのは難しい年齢になっていたからです(秀忠は1579年生れで福と同じ年)。このように、この頃将軍跡継ぎの確保が幕府の重要な課題となっていたのです。

家康は、家柄が高くなく、かつ子供を産んだことがある後家や人妻を離縁させて側女として多くを囲っていました。

有力外戚を作りたくない、男の扱い方を知っている女は気易いと思っていたからであるが、過去に子供を生んだ女はまた妊娠する可能性が高かったからと言う訳である。

家康側近の本多正信が当時将軍秀忠の側近となっていました。従って、正信を中心に家康の意を受け福に将軍跡継ぎを生ませるプロジェクトが始動したと思われます。

この任務を聞いた福は、稲葉家再興のため引き受けることとし、正成と離縁して江戸城に入ります。これは家光が生まれる前の年の慶長8年(1603年)前半のことと考えられます。そして慶長9年(1604年)家光が生まれます。

家光を生んだ福は、当初側室とする計画だったと思われます。しかし、福が信長殺害に深く関わった利三の娘だったことから、生母とすることは好ましくないとされ、乳母とすることになった。

正室の江としては、叔父(信長)殺しの福が生んだ子を自分の子とすることには抵抗があったと思われますが、将軍跡継ぎを生んでいない手前やむをえなかった。

その代わり、次に江が男子を生んだらその子を将軍跡取りとすることが秀忠と江の間で約束されます。そして江は、慶長11年(1606年)忠長を生むのです。江33歳、覚悟と意地の高齢出産でした。

もし家光が江の本当の嫡子であれば、危険の伴うこんな高齢での出産はしなかっただろう。忠長誕生後秀忠と江が忠長を可愛がり、これを見た江戸城内の家臣の多くが秀忠後継は忠長と考えたことは当然と理解できます。

歴史上家光はが生んだことになっています。しかし、が生んだという史料と状況証拠が多数あり、福が生んだ子と考えるのが妥当です。江が生んだと言う証拠は何もないし、築山御前事件の隠蔽のように徳川家はそのような史実改ざんは得意でした。幕府がそうだと言っているから大御所家康が言っているからを根拠とするのです。

それで、家光は福が生んだ子であるという主張の正当化がされていきます。

江戸城紅葉山文庫に保管された「東照宮御文の写し」に「秀忠公御嫡男竹千代君御腹春日局 三世将軍家光公也 同御二男国松君御腹御台所 駿河大納言忠長公也」との文言があるのと、

臼杵稲葉家(福の母の実家稲葉本家を相続した貞通家系)の「御家系典」に福について「慶長8年(1603年)に江戸城に出仕し、江付きの侍女になったが、容色美麗であったので、将軍の胤を宿し、慶長9年(1604年)7月17日に竹千代君が誕生したとある。しかし、実父利三(光秀の家老)の由緒を嫌い、江の出産として披露した。」という記述なのだ。以上2つの記録からもお福生母説は単なる噂ではないのです。

ここで家康が家光を秀忠の後継将軍に指名した理由が問題となる。家光を江が生んだ子と見なせば正室江の嫡子で長子だから、当然の指名です。

しかし、家康が家光を秀忠の後継将軍に指名したのは、大坂の役終了後の元和元年(1615年)のなぜこの時期になったのかが問題なのです。

家康はこのとき74歳(数え)または75歳(同)であり、いつ死んでもおかしくない年齢でした。しかもその前には、真田幸村の急襲を受け命を落としかけた大坂の役に出陣していた。

家康は腹心にこのようにに語っていた。

「儂が自分で秀忠後継将軍を指名するつもりであったなら、もっと以前に指名していたわ。指名していなかったということは、せがれ秀忠が後継将軍を指名すればよいと考えていたからだ。しかしのう、忠長誕生後、秀忠と江は忠長を溺愛した。家光には愛情を示さないので、江戸城内では次の将軍は忠長と噂する家臣が多いことは儂も承知だ」

当時の武家の相続は、嫡子相続が慣習となっていたから、家康は、秀忠が長子ながら庶子である家光ではなく、次子ながら嫡子である忠長を後継将軍に考えていることを百も承知していたのだ。

家康は「築山御前事件」や必死の「伊賀越え」そして「大坂の役出陣」といった自身と徳川家にかかわる大事件を経験するたびに物事を深く考え我慢強くなっていた。

家康は6男忠輝を勘当している。忠輝は、越後高田で75万石の大身を与えられていた。忠輝は、生まれつき容貌が醜かったため(或いは生母茶阿の局の身分が低かったため)、家康に嫌われ、本多正信を通じ下野栃木城主皆川広照に預けられて育てられます。

その後弟の7男松千代が早世したため、松千代に代って松平庶流の長沢松平家を相続し、武蔵国深谷1万石を与えられます。その後加増移封されていくのですが、慶長8年(1603年)信濃国川中島藩12万石に加増移封された。

当時飛ぶ鳥の勢いで出世していた大久保長安を家老に付けられてから、表舞台に登場することとなります。そして慶長11年(1606年)、長安の仲介により伊達政宗の長女五郎八(いろは)姫を娶ります。

ここから忠輝は長安や政宗の野望に利用されることとなります。(その後越後高田を加増され、高田城を築き、移る。)

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に際しては、留守居役を命じられ、これに不満な忠輝は、高田城を出発しようとしませんでした。これは政宗がなだめ、遅れ馳せながら出発します。

翌慶長20年(1615年)の大坂夏に陣においては、高田城から大阪に進軍中の近江守山で、忠輝を追い越した将軍秀忠直属の旗本長坂血鑓九郎信時(家康の甲斐攻めの際、穴山梅雪を寝返らせた長坂血鑓九郎信政の子孫)を斬殺します。

またこのときは、大坂城大和口の大将を命じられていましたが、遅参し軍功を挙げられず、家康に怒られることとなります。

大坂の役終了後には、京で家康が朝廷に戦勝報告に行くため忠輝も同行するよう命じていたところ、忠輝は病気を理由に同行しなかったのですが、後日このとき嵐山で川遊びをしていたことが分かり、再度家康の怒りを買います。この結果、同年8月、家康は忠輝に対して今後対面しないことを伝えます。

事実上の勘当処分です。この結果、忠輝は家康の死に目にも会えませんでした。そして元和2年(1616年)の家康死後、秀忠により改易と伊勢国朝熊への流罪を命じられます。

忠輝の一連の処分には、このほか、伊達政宗が忠輝を担ぎ天下取りを狙っているとの噂があったことや、将軍側近の中に大久保長安が忠輝の家老として更に権勢を拡大することへの警戒感もあったようです

一方、大坂冬の陣には、9男尾張藩主の義直が初出陣し、夏の陣には10男駿府藩主の頼宜が初出陣しています。特に頼宜は、当時14歳で、生まれてからずっと家康の元で育てられ、家康お気に入りの息子と言われていました(加藤清正次女八十姫と婚約済み)。家康は、頼宜初出陣の際自ら頼宜に具足を着せたと言われています。

このとき義直は慶長5年(1600年)生まれの16歳(数え)、頼宜は慶長7年(1602年)生まれの14歳(同)、更に11男頼房(水戸藩主)は慶長8年(1603年)生まれの13歳(同)でした。一方家光は慶長9年(1604年)生まれの12歳(同)、忠長は慶長11年(1606年)生まれの10歳(同)でした。

将軍秀忠より13歳年下の忠輝(当時22歳)でさえ、将軍秀忠にライバル心を燃やしていましたし、そういう忠輝を担ぎ伊達政宗が将軍交替を狙っているとの噂もあったのです。だとすれば、義直、頼宜、頼房と家光、忠長は年が近いだけにライバル心を燃やし、将来将軍を争う心配大いにあったのです。

またこのライバル心を周囲が利用する可能性があります。家康は、この根を断っておこうと考えていたのです。大坂の役後、後継将軍は「家光」と家康の鶴の一声で決定したのです。嫡子ではなく長子相続制度を宣言したのです。

更なる家康の深謀は信長の血を引く将軍を誕生させないためであった。大坂の役では、どう考えても勝ち目はないのに秀頼は戦いを挑んで来た。冬の陣は、やってみないと分からなかったとしても、濠が埋められた後の夏の陣は、100%負けが分かっていた戦いでした。それでもなお戦いに臨み、最後は曲輪炎上の中で自害した。

炎上する本能寺で自害した信長公に重なって見えたのでしょう。家康は信長の血は不吉であり信康のことも頭に過った事だろう。は信長の姪であったことからその子忠長は信長に生き写しである。自分に我慢を強いてきた者の血をひく忠直を将軍にしてはいけないと考えたのだ。この場合、嫡子優先を外し長子相続を正当付けたのだ。

乳母の福は駿府に行き家康に家光後継を直訴した。しかし将軍後継問題は乳母で左右される問題ではない。福は稲葉一鉄の長子重通の養女として育てられたが、重通は一鉄の長子ながら庶子だったため、稲葉本家の家督は、次子ながら嫡子である貞通が相続していたのです。

福は、家光は長子ながら庶子であり、秀忠の後継将軍は次子ながら嫡子である忠長が継ぐものと分かっていたのでしょう。よって、家康が秀忠の後継将軍に家光を指名したことは、福にとって当に晴天の霹靂であったのです。

晴天の霹靂ながら、家康が福の生んだ子、家光を秀忠の後継将軍に指名したことから、江戸城にやってきた目的である稲葉家の再興を果たすこととなります。

元夫の稲葉正成は、慶長12年(1607年)に美濃に1万石の領地を与えられ大名に返り咲き、更に家康の孫松平忠昌の付家老となります。

福の長子の正勝は、家光に小姓として仕えてからとんとん拍子に出世し、年寄で小田原藩8万5千石の大名となっています。

正勝は38歳で病死し、嫡男正則が12歳で小田原藩を相続し、福の兄斎藤利宗が補佐します。

福には他に正定、正利の2名の実子がいた。正定は徳川義直の、正利は徳川忠長の家臣となっていますので、福はリスク分散のためそれぞれ違う主君に仕えさせたのは忠義一筋で仕えた父利三の教訓があったからでしょう。

福の関係でその後出頭したのが堀田家です。堀田家は、稲葉正成の前妻の娘万を福が養女とし嫁がせた堀田正吉の家です。福が万と正吉の間に生まれた正盛を養子としたことから、家光の近習に取り立てられ、その後家光側近として老中、大政参与にまでなります。

このように福が稲葉正成と離縁してまで江戸城入りした目的は達成されますが、これは家康が心配した外戚の勃興でもありました。その後、福は、家光の後継者作りのために大奥を作り、老中並みの政治力を発揮します。そして朝廷から春日局の名号を賜り、官位は従二位下まで登りました。

この話の骨子は伝えられる正史を多少逸脱していますがWebの記事を多く参考としてあります

徳川家康 第二 その五へ

https://note.com/rokurou0313/n/n2d9d6dec74e6/edit






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