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久松真一その思想と生き様2

このときの、宝林の意見を加味した西田の手紙が残っている。「南禅寺に豊田毒湛と河野霧海が居り、建仁寺に竹田黙雷、東福寺に別所九峰、相国寺に橋本独山、天龍寺に高木龍淵、大徳寺に川島昭隠、妙心寺に池上湘山がいるが、この中、昭隠か湘山がよい。しかし君には湘山がよかろう」。

 およそ自己の覚醒を目指す青年へこれだけのガイダンスを与えてくれることは皆無である。ここが京都という禅を標榜する大寺院があり当代の俊英があまた集う土地柄であったからに相違ない。

とは言え、当時の禅林と大学の関係の深さには驚く。世に京都学派の時代とか京大浪漫派などといわれた時代の幕あいだったのだろう。

 11月、久松はようやく湘山に相見して、『大応語録』提唱に参じることを許された。久松は湘山の印象を「大鉞(おおまさかり)の刃をこぼしたやうな鉛の如く地面に食い入る禅僧」と言っている。
まさにこのような禅的存在こそ世俗を悩ましく生きてきた青年が求めた有り様だったのだろう。

 しかし湘山は、いったん禅堂に入って弟子に向かうときは「近づき難い千仭の断崖絶壁」でもあった。久松は真冬の臘八大接心で破裂するほどの自己の滅却を強いられ、殺気と異常こそが鍛練に必要だったことを知っていく。一斬一切斬、一成一切成、なのである。こういう久松に、西田は抱石庵という号を与えた。
「石を抱えよ」という意味だ。

その後の久松が臨済宗大学(いまの花園大学・・私は自分の娘に禅的な教養を身に付けて欲しいため通わせた大学でもある)や仏教大学(いまの龍谷大学)や京都帝大で講師や助教授をしながら、「一瀾会」「真人会」といった座禅会を組織していったこと、京大に「心茶会」をおこして『茶道箴』を著したことは、あまりに有名である。

 ここから何人の学徒や学衆が育っていったか。のちにこれらはFAS禅として世界にも広がった。

 こうして50歳になって初めて世に問うたのが『東洋的無』だった。昭和14年だった。遅咲きなのではない。自己の覚醒を深く認識し世に問うにはこれだけの時間を要するのだろう。

満を持しての「東洋的無」であったが、数年後、敬愛していた西田が亡くなると、久松は堰を切ったように『起信の課題』『茶の精神』『絶対主体道』『禅と美術』などを著していく。そのすべての起点が東洋無だった。無の発撫こそすべての出発点であった。

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