見出し画像

琳派 3

琳派の装飾の題材にはどんな意味が秘められているのだろう。日本美術には、鶴亀や松竹梅とか長寿と繁栄を連想させる所謂シンボルが多数あります。

琳派に即していえば、それはシンボルというよりイメージ力を呼び覚ます意匠というのだろう。

琳派様式は、形態の総合と意匠の単純化を特徴とする。
私の故郷近くの駿河の宇津ノ谷峠を題材にした蔦の細道図屏風ですが、この伊勢物語は日本文学史上屈指の名作で10世紀を題材にした物語です。
これには一本の小道がきわめて簡潔に表されています。

色遣いは金箔および孔雀石の緑青と最小限に抑えられ、日本人なら誰もがこの絵を見て、物語の一節をそれとなくイメージできます。

ひとりの高貴な旅の男、この在原業平に擬せられた昔男は、その死を自覚した物憂いた気持ちで宇津の山を越えていきます。

男は想いを寄せる女性に宛てて歌をしたためますが一人の修行僧に出会うと、想い人に渡してほしいと、その歌を託します。蔦の葉が描かれているだけで、その情景がまざまざと心に浮かびます。

私がメトロポリタン美術館展に行った帰りわざわざ根津美術館によったのはここで所蔵する国宝燕子花絵図屏風の鑑賞であった。

残念ながらこの国宝は根津美術館の素敵な庭に燕子花が咲き乱れる期間だけのようで鑑賞は適わなかったが光琳が屏風に仕立てた題材のひとつである八橋の燕子花(カキツバタ)は、伊勢物語の一節をありありと描き出しています。

それは『伊勢物語』の第八段「東下り」です。燕子花図屏風は、作品自体も魅力的ですが、絵の背景にあるストーリーを知れば、絵の魅力が増すだけではなく見方の幅も広がり、より楽しめるようになります。

特別な燕子花というモチーフが特定の季節や心持を指し示していることも忘れてはならない点です。

この主人公の昔男は、都に「居場所がない」と思い、「自分の住むべき場所を求めるべく」、友人たちと連れ立って、当時は田舎だった東国へと向かうことにします。

その途上、三河の八橋というところで休憩していた時のこと。
水辺に燕子花が群れ咲いているのを見つけた一行のひとりが、主人公に向かってこんなリクエストをします。

「『かきつばた』の五文字を、句の先頭に入れて、旅の気持ちを読め」
 なかなかの難題ですが、主人公はこれに応えます。


らころも
つつなれにし
ましあれば
るばるきぬる
びをしぞおもふ

何回も着て、体になじんだ唐衣のように、慣れ親しんだ妻。彼女が(都に)いるからこそ、遠く離れた旅のわびしさが思われる。

句の頭の文字をそれぞれ拾っていけば「かきつは(ば)た」となります。主人公は、見事にふたつの課題をクリアしたわけです。

歌を聞いた人々は涙をこぼし、食べていた乾飯(米を乾かしたもの)がふやけてしまったほどでした。

これに関して、琳派は日本的感性の本質を具象化しているからだと西洋の識者を含めた専門家は一様に語ります。
「琳派の絵師がいかに中国画の技法を用いようとも、琳派以上に日本的なものはありません」と。

パリ万博に初出展をした当時興ったジャポニスムは琳派の素晴らしい絵画が当時の中国絵画にはない日本人特有の完成度や哲学性をして、哲学好きなフランス人の心を捉えたことに始まったのは間違えのないことだろう。

最後になりますが琳派は西洋絵画に真に影響を与えたのだろうか。

19世紀にルイ・ゴンス(1846-1921)が全二巻からなるフランス初の日本美術の概論書を出版します。図版が豊富に収められ、序文のなかで日本人は「世界で第一級の装飾家」と評している。

西洋の作家たちは、琳派作品が放つ装飾的性質とセンスに真に魅せられたのだ。

ルイ・ゴンスは、光琳を当時の最も創意に富んだ個性的な作家であると考へ、光琳の作品にみられる形態の単純化は、現代性への渇望や、描くことで自然を喚起する欲求を満たし得るものと表現した。
また琳派作品の愛好家または収集家だった西洋の作家には、印象派やナビ派の画家たち、クロード・モネ、エミール・ベルナールら多数がいることを明らかにしています。

マヌエラ・モスカティエッロ(Manuela Moscatiello)氏は2016年よりパリ市立チェルヌスキ美術館で日本美術を担当した研究者ですがここでは氏の話を聞いてみましょう。

「一般にはあまり知られていない、ジュセッペ・デ・ニッティス (1846-1884)というイタリア人作家がおります。
マネやドガと交流があった人物で、私はこの作家にとってのジャポニスムを研究してきました。
彼は、扇形の作品をいくつも制作し、日本の様式を模倣しましたが、自然が画題となることが多い意匠の模作に留まっていたわけではありませんでした。
重要な点は、日本画特有の技法および画材の使用を模範としたことです。デ・ニッティスは琳派の絵師に倣い、金粉や銀粉、金箔や銀箔といった貴重な画材を用いました。」

「イタリア人の学生だったあなたが、どのようにして日本美術の美しさに強く魅せられるようになったのですか」
とマヌエラ・モスカティエッロ氏にさらに質問しました。

 彼女はこのように答えています。
「私はボローニャ大学の学生でした。とくに19世紀のフランス美術とイタリア美術は、私の初恋といってよいほど心惹かれるものでした。

その後、私はジャポニスムに傾倒します。この心を捉えて離さない、ジャポニスムという現象を通じて、私は日本美術と出会いました。

長きにわたり一緒に仕事をすることになる私の先生は、10年におよぶ日本滞在から帰国し、私の講義を担当していました。

そして、先生の授業は、私が素晴らしい世界へと足を踏み入れるきっかけとなりました。

日本の美術作品への入り口となったのは版画でした。ボローニャ大学では浮世絵のコレクションを豊富に所蔵しており、先生は回顧展のコーディネートをいくつも手掛けていました。

私もそれに協力したことが日本趣味の来場者の観点を理解する大きな助けとなっています。

その後、修士号は美術史学科外で取得し、日本語の勉強を始め、数度にわたり日本を訪れました。

私にとって日本と言えば京都です。神社仏閣が多く気持ちがとても落ち着いたものです(今もとても落ち着きます)。

そこで引き続き日本語と日本の美術史の学習に努め、さらに深く研究しようとフランスにやってきました。

日本へ初めて旅行する前に、日本に次いで豊富な日本美術のコレクションを所蔵する、ワシントンD.C.のフリーア美術館を訪ねました。

そこを訪れたとき、私は20歳でした。《松島図屏風》という宗達の作品を見たいと思い、フリーア美術館のキュレーターに手紙を書きました。
なんと幸運なことに返事を頂き、至宝ともいえるその作品を見る許可をもらいました。

あれほど重要な日本の美術作品を目の当たりにしたのは、おそらくそれが初めてのことで、一日中収蔵庫に籠っていました。私には琳派と深い縁があると感じています。」

フランス人がが日本美術に魅了されるのはどうしてですかとの質問にはマヌエラ・モスカティエッロ(Manuela Moscatiello)氏更にこのように語りました。
フランスに限らず、西洋について言えることですが、そこには飽くことのない知識欲があると思います。

フランスに関しては、日本美術が与えた影響は、おそらく19世紀にさかのぼるもので、芸術やファッションをはじめとする分野においてみられます。

(当時の)雑誌記事には「日本美術はパリにあるのだから、日本まで行くにおよばない」と書かれました。

日本美術の普及には当時、3つのルートがありました。
パリ万国博覧会は、1855年、1867年、1878年、1889年および1900年と50年のうちに異例の頻度で開催され、日本美術にとって大きな影響力をもつものでした。

それに回顧展およびアジア美術を専門とする小規模な画廊、競売もまた中心的役割を果たしていました。
こんな経緯をへて琳派の作品は多くのフランスの心に響いてきたと今も確信しています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?