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生命哲学としての知情意

カント

1770年46歳でケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学の正教授に任命されたカントは、その後「沈黙と模索」の10年の時を費やし[「純粋理性批判』を出版、さらに10年の間に『実践理性批判』『判断力批判』を世に問います。これが三批判書と呼ばれるものです。彼は長い雌伏の時を経て、遅咲きの哲学者として世に出たのです。

カントが主張した批判の背景には、 プラトンから始まる主知主義(知性を重んじる立場)の批判があります。

人間は、知性だけの動物ではありません。 昔は、知性を働かせれば、神をも理解できると信じられていたのですが、カントは、心や、世界、神は、知によって理解されるものではないと言います。

 人間は理性を持っていますが、この理性は、知の理性だけでなく、 感情の理性、意志の理性があると言います。いわゆる知情意です。

意志の理性とは、道徳的に振る舞おうとする実践理性です。 道徳的に振る舞う知的な理由はなく、それは知の問題では無いのです。 

この世界は目的があって生じたと考えがちですが、それも知の問題ではなく、情の問題だという事です。
しかし人間とは、単に、「知」「情」「意」の総和でもなく、 部分の集合でもなく、知・情・意を備えた全体的な存在なのです。

カントの「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」の著書が 3批判書として呼ばれる理由は、それぞれの理性の限界を示しているからです。

 カントの結論は、3批判書をとおして人間学を提唱する事にありました。
カントは、哲学は3つの問いを問題にすると言います。 

「私は何を知りうるか」

「私は何を望んでよいか」

「私は何をなすべきか」

それぞれ、知・情・意に対応する問いです。
これらの問いは、究極的に、「人間とは何か」という問いになります。

彼が言いたかったの人は、科学万能主義や啓蒙といった知性中心主義だけで終わってはいけないという事です。

人間には、道徳的に生きようとする実践理性と、 世界は目的があって生じる合目的性と感じる判断力がありそれを含めた総合が人間存在というのだ。

実践理性とは、読んで字のごとく、認識の為でなく、実践の為に必要とされる理性のことで、道徳・倫理に使われ、善悪がどのような時に妥当するか、また、どのように行為すべきか、ということを考えるのに必要とされます。
そして理論理性(純粋理性:感覚表象と無関係に事物を先天的ーア・プリオリーに認識する能力をいう)と実践理性を統一するものが、判断力です。

日本では京都学派の流れを受ける久松真一氏が知情意の哲学的分析をこのように展開している。

日々忘れられた死に真実向き合った時生死の混沌は生と死の絶対対立に転じ純粋かつ具体的な生が認識されるのだ。この生は日常をただ生きる生ではなく根本的に問題化した生だ。

その時私の思惟の源泉、知情意の根源が明らかになる。死の打ち破り方が知の根源であり、その打ち破る時、打ち破れない時の快不快が感情の根源で、死を打ち破ろうとする力が意志の根源なのだ。

全体的な生命の問題化とはこの知情意の根源において、生命の絶対危機として、生命の絶対苦悶として、生命の絶対ジレンマとして現れる。これが自分自身では死を克服できないと自覚されるのだ。

このような存在の一体的自覚こそが、あらゆる罪と苦の危機から抜けだすことができると久松氏いうのだ。

それは人間を相対視、限定されたものとすることからの超越なのだ。結局それは、私たちの自己は自己を超えたもの=絶対者において成立しているという事実に他ならない。

限定されたもの、相対的なものという自己の自覚の突端で自己の底である絶対者(絶対否定)に突き当たることで絶対者が自己の存在根拠として自覚できるのだ。

私たち自己が、その限界と成立根拠を知るということはその根拠たる絶対無限者を前にして自己の力を放棄することなのだ。死を真の自己自身の問題としてとらえた時、個は繰り返さない、真の生まれ変わりはないという永遠の死の自覚を得るのだ。

私たちはそもそも、絶対者の自己否定から成立しており、存在そのものが罪であれば、道徳的な善悪の価値観から言えば不合理と言わざるを得ないがそこが私たちのもう一つの自己矛盾の側面である。

私たち人間の罪悪性は現在によるものであるから、自分自身では脱する事は出来ない。私たちの罪悪の救済は信仰にあるのだ。信仰といっても俗世間的信仰ではなく絶対者の意志、呼び声を聞きことである。そこに自己否定があるからである。



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