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良寛と貞心尼その1

貞心尼は寛政10(1798)年に長岡藩士奥村五兵衛の娘として生まれ幼名はマスといいました
3歳の時に母を失いましたが、柏崎から魚介類を売りに来る行商人を乳母のように慕い、12歳の時に「海が見たい」と柏崎に行き、その折に薬師堂の尼さん達に出会い強い印象を受けた。

この出会いが後年柏崎を中心に尼として活躍した遠因となったのでしょう。

17歳の時に小出島の医師・関長温と結婚しましたが、子宝に恵まれず23歳の時に離縁され、実家に戻りましたがその後、柏崎の西光寺の末寺、閻王寺の心龍尼、眠龍尼の弟子となり「貞心尼」の法名をもらい沙弥として七年間の修行お収めました。

30歳の時に現長岡市福島町の閻魔堂の尼さんとして独居修行の生活に入ります。

良寛は、宝暦八年(一七五八)、越後の港町、出雲崎の名主、橘屋の長男に生まれたが、十八歳の時、出家し曹洞宗の僧侶となった。

二十二歳の時、岡山県玉島の円通寺へゆき、国仙和尚に坐禅の指導を受けて、約十年の修行の結果、悟りを得たのです。
名主の家に生まれながらも争いごとを好まず出家し、地位も名誉も捨て、童心を捨てず子どもたちと遊ぶことを生涯の喜びとした良寛。

豊かな芸術的才能を持ち、温かみのある書や詩歌をたくさん遺しました。欲望に苛まれ汲々として生きる現代人にとって、彼の生き様は大きな参考になるのではないか。
貧しい生活の中にも自由と豊かさを感じられるのはなぜなのか、彼の生涯を見るとその生き様が垣間見れるのだ。

寛政7年(1795)、良寛の父親が京都の桂川に身を投げ死んでしまいます。衝撃を受けた良寛は燕市の国上山(くがみやま)の中腹にある五合庵に移り11年間の乞じきの生活を送りました。

五合庵から里への登り下りが辛くなったことから、59歳のときに、より麓に近い乙子(おとご)神社の草庵に移り住みました。ここで過ごした10年間が、良寛芸術の最も円熟した時期と言われています。

草庵での厳しい暮らしや老齢を心配したまわりの方々の勧めで、69歳の時に木村家(現在の長岡市和島地域)離れの庵室に移りました。良寛はここを終の住処として、精神的に豊かな晩年を過ごしたのです。

印可(禅の悟りを認める師僧の認可)を受けた良寛は、一定の手続きさえ履(ふ)めば、住職となって寺に住み、檀家からの布施で安定した生活を送ることができました。
しかしその生活を自ら放棄し、家々を托鉢して食を乞うという、所謂乞つじきという困難な清貧生活をあえて選んだのです。

 究極の清貧生活でありながら、坐禅と托鉢という修行に打ち込み、和歌、漢詩、書を創作し、心豊かに充実した日々を、五合庵や乙子神社草庵で過ごしたのでした。
今日でも市井に生きた彼を見習いその思想や清貧の行動を指針とする人は多い。

次回2は、彼のさらなる紹介と良寛の仏弟子となった貞心尼が良寛最初の歌集「 蓮 はちす の 露 つゆ 」を完成させた消息や江戸時代3大女流歌人である彼女の人となりを紹介してみたい。

貞心尼と良寛2


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