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 福沢諭吉 続く

幕末から明治初期を生きた福沢諭吉は、『西洋事情』や『学問のすすめ』など国民を啓蒙(けいもう)するベストセラーを著すとともに、慶応義塾大学の創設や『時事新報』の創刊など教育者・実業家としても活躍した。

『西洋事情』で近代化への啓蒙

明治維新以降、日本が進めた近代化政策とは何だったのだろう。第一の思案は、しっかりとした理念の元で統制の取れた指導により学校を建設し人材の育成を計ることであった。
人あってこそ諸産業を成長させ貿易で利益を生み出し、そしてその力の蓄積が一次産業、二次産業さらには重工業へと高度化させていくのだ。

このようにして始まった日本の近代化のプログラムは、早くも19世紀末に始まるタイのチャクリー革命に影響を与え、20世紀初頭の中国ではこうした政策を学んだ康有為や梁啓超らが祖国の変革を図った。20世紀後半に行われた台湾の蒋経国による「十大建設と民主化」や韓国の盧泰愚による「民主化宣言」、中国の鄧小平による「四つの近代化」やベトナムのチュオン・チンらによる「ドイモイ」など一連の近代化路線も、その延長線上にある動きとして捉えることは可能だと日本の研究者、識者は言う。

明治以降の日本の膨張政策はアジア諸国に不幸な負の歴史的遺産を残したがその経緯はさておき、日本の近代化政策がアジア諸国に与えた影響は大きいのだ。

このような日本近代史の黎明をデザインしたのが他ならぬ福沢諭吉である。福沢の思想はどのようにして生まれたのか。それを語るには、前編「福沢諭吉という人」に書いたが彼の西洋体験を抜きにしては難しい。

九州の小藩、中津藩の下級武士に生まれた福沢は、1854年、長崎に遊学して蘭(らん)学の初歩を修め、翌年、蘭方医・緒方洪庵が主宰する大坂の適塾に入って蘭学をより深く学ぶ。

58年、江戸に移り藩の蘭学校(後の慶応義塾)の教師となった。同時に英語の習得を試み、60年に幕府の咸臨丸(かんりんまる)で米国サンフランシスコを訪問。帰国後は外国奉行翻訳方へ所属替えとなる。62年には英仏蘭独露など欧州各国を視察し、66年にそこで得た知見をもとに諸国の政治や経済の仕組みを解説した『西洋事情』を刊行した。さらに67年に再度渡米して首都ワシントンやニューヨークを訪問している。

『西洋事情』の冒頭には文明政治の6条件が大事とした。それを日本そしてアジア諸国に広めることだとした。

自由の尊重。緩やかな法制度

宗教の自由

科学立国

學校教育の充実

法治国家

福祉の充実

これらの諸条件は現在でも健全な社会国家成立の指針であり諸条件である。福沢の先見の明が知れる。

フランクリンに強く影響された福沢のキャリア

福沢の代表的な啓蒙書は『学問のすすめ』である。
初編(1872)の主題は、「身も独立し、家も独立し、天下国家も独立」するために、誰もが「人間普通日用に近き実学」を学ぶべきであるとした。これはアメリカ初渡航の咸臨丸の操船の項でも述べたことだ。
しっかりと実学を身につけた人々によって創られる文明社会こそが価値がある実社会の育成になることを強く訴えている。

同書でも、教育の必要性はもとより、自由の尊重・科学技術の導入・政府による国民の保護といった『西洋事情』で掲げられた文明政治の諸条件が重要視されていて、教育者・実業家でもある福沢の思想全体の要約となっている。現代を生きる私にとっても非常に分かりやすい指針で明治というまだ夜明け前といえる時代に生きた福沢の面目躍如と感じる。

『学問のすすめ』の冒頭「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云(い)えり」が有名だ。
このくだりは、アメリカ独立宣言書から捉えたもので、起草委員の一人であったベンジャミン・フランクリン(1706~1790)の生涯と思想に、福沢が自らの範型を見いだしたものと」いわれる。

フランクリンは科学者だ。
そして、新聞社主、社交クラブ・学会・大学の創設者、そして政治家であった。
福沢の政治家としてのキャリアは1879年に1年間東京府会議員を務めただけであるが、その他のことについては、時事新報社主、交詢社主宰者、明六社同人、東京学士会院長、慶應義塾大学の創設者と、フランクリンの経歴と一致することから考えてもその影響は多大だったと思われるている。

68年の明治維新に際して幕府を辞した福沢は晴れて民間人となった。フランクリンの『貧しいリチャードの暦』の影響を受けた『学問のすすめ』諸編(1872~75)は、実学の奨励と「一身独立して一国独立する」の主張により、『西洋事情』に続くベストセラーとなった。また75年には西洋文明の日本への移入を強く説いた主著『文明論之概略』を刊行。さらに81年以降には朝鮮の独立勢力を支援、クーデターに失敗して85年に日本に亡命してきた金玉均・朴泳孝らを保護した。

明治新政府との関係

明治維新は、長州藩と薩摩藩を中心とする勢力が徳川家を将軍の座から引き下ろし、新たに諸大名の連合体を組織することで実現した。

この新体制は古きを言えば関ヶ原の恨み返しの側面があり天皇中心の攘夷の断行といえども、彼らに新国家体制の青写真が具体的にあったのではなかった。
福沢は当初、明治政府の中枢に尊王攘夷に凝り固まった長州藩がいることに危惧を覚えていた。何故ならば、幕末には薩長よりも旧幕府の方が開明的であったからである。
それは福沢のように外国語を話す実務派の官僚が幕府内の政策をリードしていたからである。
薩長の攘夷派は英国からの援助を受け倒幕を成功させた。彼ら新政府が旧幕派の開明政策を引き継がざるを得なかったのは、スポンサーである英国の意向でもあったからだ。
そんな新政府の実情を理解した福沢は下野した後も外部から新政府への支援を惜しむことはなかった。

特に親密だったのが、英国型近代化を推進する大隈重信(佐賀藩出身)と井上馨(長州藩出身)、そして鉄道建設を推進していた岩倉具視(公家)であった。

福沢の提唱した文明政治の6条件は、新政府親英米派の人々によって、着々と実現されつつあった。
ところが、プロイセン型近代化を志向する大久保利通に政権が移るや、福沢の構想に抑制がかけられてしまう。

大久保の暗殺後、政府の実権は再び福沢の盟友大隈重信の手に帰した。そのため、1878年から81年までの間、福沢は大隈を支えるべく『民情一新』(1879)、『時事小言』(1881)など重要な著作を続々と著し、さらに交詢社案で知られる憲法草案の起草を図った。

ところがこうした英国型近代化を推進するための言論活動は、明治14(1881)年の政変により大隈や慶応義塾出身の官僚らが下野を強いられたことで、無に帰してしまう。

大久保の路線を継承した伊藤博文(長州藩出身)を中心とする政府は、以後、政治・経済・教育への国家主義的統制を強めていくことになるのだ。

福沢は慶応義塾を創設して優れた人材を輩出させる一方、実業家としては1882年に新聞『時事新報』を創刊して政治・時事・社会問題や婦人問題などに幅広く論説を発表した。

明治維新を成立させた薩長の元老生き残り伊藤は国家主義者で、福沢ほどに独立した個人の確立を重んじてはいなかった。
伊藤個人の資質をよく知っていた福沢は、国民一人一人の独立自尊に依拠しない国家の脆弱性について、懸念を覚えていくのだった。

89年の大日本帝国憲法の制定によりプロイセン型国家体制は完成された。
教育制度についても官学を主とし私学を従とする経路が確立されていった。

対外的には日清戦争日露戦争の勝利により、外圧に揺れ動いた日本の独立については一応の小康を得たが、国民の国家への依存は強まっていた。
この時期福沢はこのような状況に危惧を抱いた。『福翁百話』(1897)、『福翁自伝』(1899)といった日清戦争後の著作が、すべて一身の独立に関するものであったのだ。

独立した個個人による国家の発展を説いた福沢の啓蒙を無視した日本は英米との戦争という国家優先の全体主義に陥ちいり、結果個人としても暗黒の時代へと突入していったのは日本国民皆が知ることである。

独立した個人による国家の発展を説いた福沢の思いを今一度検証するのも一万円紙幣に何故彼の肖像画が書かれたのかの理解の一助となるのだろう。


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