Arena Homme+ 2021年 1月号 テミン インタビュー 翻訳

心を込めて
僕の気持ちはこうだと、実は今自分はこう考えているんだと、ステージでアイドル歌手が本心を吐露するのは難しいことだ。2020年、テミンは自身の物語を飾りたてることなく込めた3枚のアルバムを発表し、自身だけの音楽の世界観を強固に構築した。また、SuperMでも活躍しながら、全世界のK-POPファンの心を弄んだ。テミンの本心を聞く。


ARENA(以下A):SuperMの話からしよう。当初意図したSuperMの方向性はどんなものだった?
TAEMIN(以下T):デビューした状態から新しくチームを組むのは、面白くも難しい試みだ。核心はメンバーたちの調和だ。メンバー個々の能力がとても優れている。メンバーたちが調和を成せばシナジーが発生するが、少し間違えれば各々が別々に遊んでいる感じがしてしまうこともあり得る。SuperMとして、メンバーたちが融合するための方法を一緒に論議した。目標は、ひとつのチームに見える、ということだった。ひとつのチームになるべく、多くの労力を傾けた。

A:SuperMを準備しながら、最も大きな挑戦課題は何だった?
T:ダンスをすると、メンバー個々人のカラーが目立つ。例えば、僕に合う感じがあれば、カイに合う感じはまた違う。各々の個性より、SuperMというチームとして新しい感じが出るよう願った。SuperMのアイデンティティを確立するために、様々な試みを強行した。頭の中で、明確なイメージが浮かんでくる訳ではなかったが、正解はあるはずだという確信があった。あれこれ試してみると、振付師がたくさん苦労をした。最終の振付は、最初のものとは本当に全く変わっていた。特に、タイトル曲の 'One(Monster & Infinity)' は、振付修正を本当に沢山行った。

A:全世界のK-POPファンがSuperMに注目した。海外のファンはK-POPに何を求めていると考える?
T:SuperMは全世界、特に米国市場を攻略しようとした。米国は、SuperMが主力として活動する場であり、実は、結構前から個人的に夢見てきた市場でもあった。以前と比べると、K-POPの認知度はかなり向上した。韓国のアーティスト達と会社が繰り広げてきた努力が、日の目を見る時期だと思った。可能であれば、米国市場の扉を直接叩いてしっかり攻略してみたい。過去、日本市場で活動した当時は、日本の会社と契約を結び、日本の制作陣と一緒に活動する現地化戦略を展開した。米国市場でも、Jimmy Kimmel Live!やThe Ellen DeGeneres Showのような現地プログラムに出演し、インタビューなど現地化戦略のための多様なプロモーションを進行した。

A:SHINeeがデビューした12年前にも、米国やヨーロッパにSHINeeファン達がいたことが思い出される。
T:英国のアビーロードに行った時のことを思い出す。随分前のことだが、その時までは海外のK-POPファンはアジア人しかいないだろうと予想していた。しかし、実際は全く違った。様々な人が僕たちを見に来てくれた。現地のファンが僕たちの歌を一緒に歌う姿をはじめ見た時は、少なからず衝撃を受けた。SMTown World Tour in Parisのコンサート当時にも、ヨーロッパのファンが沢山訪れてきてくれたことが思い出される。そのような流れが徐々に拡がりながら、K-POPがメジャーになったのではないかと思う。

A:いまのK-POPの地位を体験したら、感慨もひとしおだろう。
T:勿論だ。それから、はやく外国語を習得しなくてはと思っている。ファンとのコミュニケーションはとても重要だからだ。華麗なビジュアルアートも良いし、振付も大事だが、ロングランしようとするなら、何よりも意思疎通が出来なくてはと思う。海外ファンとコミュニケーションするために一番良い手段である英語を習得しなければならない。日本活動を行う時には、日本語の勉強を本当に一生懸命頑張った。日本語でのコミュニケーションが可能になったので、次は英語を学ぶ番だ。ファンと直接意思疎通しながら、僕たちをもっと知ってもらい、ファンとの絆を深めたい。K-POPの流行が一瞬の灯火とならなければ良いなと思う。今のこの熱気が冷めなければ嬉しい。

A:今年3月には、ソロコンサートの話があった。しかしながら、コロナにより公演に制約が生じた。ステージで公演できないということは、ミュージシャンにとって残念な状況だ。
T:そうだ。国内活動はコンサートに比重を置いていたのが事実だ。当時、大きな会場を借りていた。ソロとして立ちたかったステージでもあったが、パンデミックにより、コンサートは無期限延期となった。コンサートの準備が水の泡になったようだった。落胆もし、精神的にも辛い時期を過ごしたのは事実だ。それでも、励ましてくれるファンがいたので頑張ることができたし、制作陣と一緒に話しながら突破口を模索したりもした。Beyond Liveのような非対面コンサートは、ステージで行う公演よりもっと多くの人にコンサートをお見せすることができる。例えば、10万人を動員できる競技場は限定的だが、Beyond Liveは10万人以上の無制限な接続が可能だ。逆に考えると、コンサートのプロモーションが出来た良い機会だと思った。僕の立場をより強固にし、パンデミックが終わりを迎え、ファンと呼吸できる時に、もっと発展した姿をお見せすることを2020年の目標にすることができた。

A:コンサートのステージがなければ、仮想空間でステージを作れば良いという意味?
T:そうだ。また観客と対面する時、自分自身が堂々としていたい。もっと成長した姿で戻って来れば良いと決意した。

A:アーティストとはそうである。持続的に新しい作業をするためには、既存の作業を分析し、変化の基準を確立するなど、複雑な過程を経なければならない。だからこそ、実験的な試みをし、色々試しながら新たな方向を模索する。今のテミンもこのような過程にいるように見える。
T:人々が僕を見なければならない理由が必要だ。新人であれば、ニューフェイスという点で大衆に新鮮な印象を与えられる。しかし、すでに多くのものを見せてきた状態であるとしたら?大衆の期待値は想像より大きい。大衆の期待を満たすことは、とても難しい。だからこそ、挑戦しようという欲が大きくなる。自分のアイデンティティに対して頻繁に考えている。人々が僕を見なければならない理由に対する悩みだ。数多の歌手の中で、特別な姿を大衆にお見せすることが歌手の宿題だ。

A:自身をどのように表現すべきかという悩みがたくさんあるようだ。アイディアはどう得る?
T:2020年にはストーリーテリングを試みた。<Never Gonna Dance Again : Act 1>、 <Never Gonna Dance Again : Act 2>、プロローグシングル<2 KIDS>まで、大きく3つに区分することができる。僕の世界観を構築したかった。アルバムに僕の物語を含め、僕のアイディアと考えを込めることで本心を伝えられるから。だから、<Never Gonna Dance Again : Act 2>では、僕の精神的な部分を歌詞として表現した。具体的に話すと、僕の状態、僕が聞きたい言葉などを、格好つけて書くのではなく、日記の内容を参考にして淡々と書いた。僕の物語を直接歌うのがより心に響く。僕の物語を歌う時は、ファンにもっと正直な姿をお見せしたと思う。僕の物語を伝えるのがアーティストの務めであり、僕が今後やるべき宿題だと思う。これからはもっと領域を広げていきたい。トラックからメロディーまで全部書くことは出来ないだろうが、可能な限り最大限参加して、曲に僕を込めたい。そうしてこそ新しいアイデンティティや方向性を確立できる。

A:歌が上手いからではなく、自分が書いた歌詞だから自分が歌うのだと。あるバンドのボーカルが言った。自身の物語を自ら歌わなければならないという意味だ。
T:そうだ。コールドプレイの'Fix You'も自身の恋人に向けて書いた曲だが、多くの人が涙を流しながら共感する。僕もやはりファンの心に僕の歌が響くよう願う。歌がとても上手だから、歌詞が哲学的だからではない、心を込めて書いた歌詞だからこそ胸に響かせることができると思っている。

A:今日のコンテンツ傾向も本心を内包している。人々が好むコンテンツは、ウェルメイドより本心が込められたものだ。
T:そういう意味で、ヒップホップが脚光を浴びているのではないだろうか。自身の辛い時期や悩みに対し、正直に打ち明ける。ミキシングやマスタリングが完璧でなくても、歌詞の正直さのおかげで、聞きたくなるような曲もある。本心を込めた曲を人々が求めることは、その曲が聴衆者の心境を代弁しているからではないだろうか。共感できる歌詞、自分を投影することができる歌詞に、人々は心惹かれるようだ。

A:デビュー12周年だ。これまでの12年の活動の中で、最も大きなターニングポイントはいつだっただろうか?
T:初ソロ活動だ。初のソロは、僕だけの音楽世界が開くスタート地点。振り返ると、当時はあまりに欲張りで、野望が大きかった。初ソロ活動を行いながら、メンバーたちの大切さに気付いたし、また、人間テミンとしても成長することができた。

A:A-Awards授賞式を除いて、2020年、最も楽しかった瞬間はいつ?
T:あまりに多くて選びきれないが、最近、SHINeeのメンバーが揃った瞬間が最も楽しかった。軍隊を除隊したメンバーたちが、僕の音楽番組の最終日に、応援のためにわざわざ集まってくれた。久々に集まったので楽しかった。

A:2020年は、テミンにとってどんな年だったと記憶されるだろう?
T:スペクタクルな年だった。泣いて、笑って、楽しくて、忙しくて、遊んで、すべてやった。気が遠くなるほど時間が早く過ぎていった。それから、大きな成長もあり、忍耐力も鍛えられた。遊んで、休んで、食べて、こういったことをよく我慢した。徹底した自己管理の年でもあった。

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