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春大詰めの候

連休中は終始風邪気味で空元気でなんとか凌いだという感じだった。ぐずついた体調が何日も続くのは初めてで、いよいよ身体に何かしら地殻変動が起こったのだろうかと思った。

一週間で、兵庫県朝来市和田山町の藤公園、豊岡市竹野町の竹野浜、養父市大屋町の明延(あけのべ)、そして京都を巡った。

連休明けは田植えを手伝ったり、蜂の巣を駆除したり、さや豆を収穫したりと、慌ただしかった。濃密な一週間だったが、鼻が詰まっていたのでどこへいっても飯の味がわかりにくかったのが残念だった。そして今ようやく落ち着いたところで風邪気味が治った。


和田山町の藤公園は、自宅から車でちょっと行ったところにある。5月上旬が見頃で、連休中はこの田舎にもいろんな地域のナンバープレートをつけた車が押し寄せる。だいたいが帰省客なんじゃないかと思うけど。僕が行った時はまだ花が咲ききっていなくて、3分咲き、良くて5分だった。嗚呼、いつから季節の花を愛でるようになったのだろうかと我ながら想うのである。

竹野浜は兵庫県の北、日本海に面したところにある。竹野駅から1キロほどのところにあって、隣は城崎温泉なので、この辺りでは最も海水浴客が多い。山陰ジオパークとのことだが、同じ但馬人として且つ環境科学を専攻していた者として、それがどういうものなのか知らないのは情けなかった。日焼け止めも塗らず、竹野の青々と輝く海と太陽の光に照らされ赤面の至りである。

養父市大屋町明延は僕のルーツである。ここは鉱山町で、むかし祖父母・父らが暮らしていた。祖父は明延鉱山で削岩の仕事をしていて、その事故で両目を失った。だけどそれが、後に僕が生まれるきっかけを作った。海面下130m、総延長550kmのこの穴の中に運命の転換点があるとは、と思い巡らすのだった。この日の夕方はバーベキューをしたのだが、肉の味がしなかった。感傷のせいではない。鼻が詰まっていたからだ。坑道は気温10度程度で寒く感じた。「明延鉱山は破れふんどしと言われている。その理由は、たまに金が出るから」というガイドのユーモアでちょっと温まったけど、あまりウケてなかった。

明延は「我が家史編」とでも言おうか、記録も取らず地味に調べ回っている。父の生家(鉱山の社宅)跡、水場、共同浴場跡。教えてもらわないと分からない。


京都では市内各地で国際写真祭の展示をしていたので、あちこち見て回った。誉田屋源兵衛でイサベル・ムニョス、二条城でアーノルド・ニューマン、両足院建仁寺で荒木経惟。一応目当ては写真なのだけど、実際は「誉田屋源兵衛さんの帯は使用できるか否か」、「二条城の活用問題はその程度か」、「建仁寺の茶室で珍しい建築発見」、というテーマにすり替わった。

誉田屋源兵衛は京都の老舗帯問屋さんで、写真展の会場の二階に帯が飾ってあったのだが、それは帯として実際に使用するものなのか、それとも今このように鑑賞するためのものなのか、疑問に思った。なにせ、あまりにも美しい帯だからこんなの使う気がしないよ、でも使わなかったら帯として成立するの?という気持ちから沸き起こった疑問なのだ。これにはどの答えが正解に近いのかわからないが、少なくとも僕らが気安く触っていい代物ではないことは間違いない。この帯は何年先か何十年先か分からない、その人が来るのを待っている。僕にできるのは、時間が堆積する重みに熱を帯びるだけ。


二条城のアーノルド・ニューマンの写真展も、どっちかというと写真よりも二条城に関する議論に関心があった。勿論、ピカソやダリ、マリリン・モンローの肖像写真を見た時は気持ちが高ぶったが、立ちっぱなしの腰の痛みほどではなかった。二条城の議論というのは、僕が京都に行く前日、ニュース番組で「山本地方創生相が「一番のがんは学芸員」と発言したことについて、デービッド・アトキンソン氏が「文化財の保存と活用」の私見を述べていたのを見た」話だ。アトキンソン氏は二条城の活用についてかなり学芸員と論争したらしく、二条城でお花を生けるのも反対されたし、庭で篝火をたくのも反対されたそうだ。保存に傾きすぎて活用が不十分な状態だったと言っていた。

僕に言わせれば、城で生け花教室をしたり篝火をたくことって活用って言うのかね、という話だが。活用というのは「そのものの価値をうまく活かすこと(発揮すること)」なのだから、二条城がどんな価値を持っているのか知っていなければならない。昔、火を焚いていたからといって今もすれば良いかというと、まあそれが本当に大事なことなのかどうか議論をするのは避けられないだろう。僕の考えでは、安倍首相が退任演説を二条城でしてくれたら活用って言ってもいいかなあ。冗談。そんなことよりも、保存と活用が天秤にかけられるように対立して語られることにどこか根本的な見落としがあるように感じられるのだ。個人的には「保存∩利用=活用」で理解しているかなあ。ただの思いつきなんだけど。

二条城内のニューマンの写真展を見に行くと、建物の中に入ったところで、アンディ・ウォーホルがペイントしたBMWが展示されていた。おお、これまた斬新だなあ!二の丸の台所にBMWかぁ、大政奉還150周年はやることが違う 笑。これも「文化財活用」の一例なのだろうか。

今回は写真祭のプロデュースがBMWというのもあるだろうが、この手のコラボというのは、異色同士の混ざり合いが多い。時にはイチゴと大福のような最高の組み合わせもあれば、スイカと天ぷらのような腹を下す組み合わせもある。個人的には、二条城とBMWは後者かなあと思うのだ。せめて厩(うまや)に停めてあったのならアリだったかもしれない。

最後は、祇園にある両足院建仁寺の荒木経惟(通称:アラーキー)の写真を見に行った。この写経老人の作品は写真を見ただけでは奇抜奇怪すぎてよく分からなかったが、今回は解説の手を借りることで少し受け入れられるようになった。

それよりもこの建仁寺で僕が気になったのは、ここの「臨池亭」という茶室の屋根だ。その屋根を支える垂木(たるき)という部材が、角垂木ではなく、丸垂木で作られていた。

この丸垂木を作るのは難しく、反ることのできる木材を切り出すしか方法がなかったため、大変苦労したのではないかと思った。ただ、屋根自体がお寺のものほど大きくないし平行式構造のため、それほど大変でもなかったのかなあ、とも思う。垂木は重い屋根を梃子のように上に持ち上げる機能があり、下から見ると扇型をしているのが本来あるべき姿だが、これは平行になっている。平行なのは単なる装飾としての意味で設置されているようなので、垂木としての機能は果たしていない。機能面で見るとむしろ屋根の端っこに重みをかけている分、力学的に負荷が大きい。その負荷を軽減するために、屋根裏の内部の見えないところに桔木(はねぎ)という、屋根を持ち上げる部材が仕込んである。これで梃子のように屋根を持ち上げ、おかげで屋根が垂れ下がらなくなっている。見えるところは綺麗に見せ、裏でしっかりバックアップをとる。いかにも日本的?

この時は単純に丸垂木に会えたことをただ喜んだ。だが、屋根に触れてスタッフに注意されてしまった。さっき、誉田屋源兵衛の帯を気安く触れないなんて言ったくせに、と猛省した。


連休明けて、畑に戻ると絹さやがわんさか生っていた。全部採ったかと思えば、2日後に様子を見るとまた同じように実をつけている。これもまたほうれん草のように緑のうんこが出るほど食べなあかんのか、と思った。

田植えも無事に終えた。春、秋と、田んぼ仕事の時期はなぜか地元がものすごく牧歌的な雰囲気がする。こんなに居心地よかったっけ。僕は気分が良かったので、犬(官兵衛)の冬毛をむしりにむしった。間も無く1歳を迎える彼は初の田んぼである。


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