見えているものは人によって異なる理由
私たちが自分の目で見ているもの。
同じものを見ていると当然のように思ってしまっていることで、もめたりすることってたくさんある気がします。
「ここ汚れているのになんで掃除しないんだろう?」
「ここにあるのに何で気付かないんだろう?」
そんな経験ありませんか?
自分が見ているものと、相手が見ているもの。
そこが違ってくる理由はたくさんあって、
そもそもヒトというのは自分が見たいものを見ているのだ
なんていう哲学的・脳科学的な理由も有名です。(そしてまさしくその通り)
でも今日は、もうちょっとシンプルに、
そう言われればそうだよね笑
…につながるところを紹介したいと思います。
見ているものが人によって異なる単純な理由①
それは視力!
まさかのそれだけ?!そうなんです!
私はずっと1.0とか1.5とかを保っているメガネとは縁遠い生活をしてきました(今は老眼もあるけどね!)。
子供の頃、親戚の家に泊まりに行きお風呂に入ると「なぜここのお風呂はこんなに汚れているのだろう」と不思議に思いながら、毎度掃除をして帰ってくる、という習慣に。
その謎が解けるのは、結婚して数年後のこと。
夫がお風呂から出てくるのが遅く、「あれ?用事に間に合うんだろうか」と声をかけたら慌てて出てきたことがありました。
お風呂の中には、温度調節の電子パネルがあって、そこには小さいけど時計表示があります。「時計があるのになぜ気付かないんだろ」と思った矢先。
!!!!夫は視力が低い!!!!
な、なるほど、あれ、見えないんだ!!!
驚き!!!
そっかそっかそっか、なるほどね!
それまで何年も一緒に暮らしていたけどそんなこと気付かず。
そこで繋がったのです。私の親戚の家族。全員かなり視力が低い。お風呂に入る時ってメガネかけないもんね!!!
視力だけでも、見える世界はすごく違うってほんとに心に留めておきたいところです。
見ているものが人によって異なる単純な理由②
身長!!
え?!そこ???そこです!
これもまた私の話になりますが、私はなかなか身長が低めです。最近の若者に比べると、とかっていう話ではなく、同世代的にも低く、身長だけでいったらキッズサイズでいけるレベルです。
でも、生まれてこの方ずっと小さいわけなので、周りに大きい人がいることが普通であり、慣れていて、自分で背の低さにびっくりするのは集合写真くらい。
そんな私が、普通に背の高い知人と某ドーナツ屋さんに行った時のこと。私が会計しているのを見て友達が「えー!そのドーナツどこにあった?!」と驚きの表情。
実はそのドーナツは一番下の棚にあったのです。
そうか!知人の身長だと、覗き込むまでいかずとも、少しかがまないと奥まで見えない!!
身長が低くても得する事案もあるのね、ふふふ。
…と思った次第です。
ですがもちろん、その逆もあります。
私は冷蔵庫のドア上方にあるポケットは見えません。視界に入りません。
それゆえ、そこに何かを置かれても、あえて見ない限り私は気付くことなく終わります。
車の運転も同様。平均的な身長がある人であれば当然見えるものが、低身長だと見えません。けっこう、工夫して運転してるのです。
身長差がある人と一緒にいる時、その人の視界には何が映っているのか。目の高さを合わせてみるといいですよ!
見ているものが人によって異なる単純な理由③
目が開いているからと言って見えているわけではないし、誰かと同じ方向を見ていても同じものを見ているわけではありません。
ぼんやりしてれば視界には映っていても見てるってほどでもなかったり、視線がどこを向いているかももちろん関係しますし、それこそ、頭の中で考えていることにも関係してきます。
冒頭に書いた言葉にも繋がるけれど、「赤」と思うと、街を歩いていても赤い色に気付きやすくなったり、自分が子供をもつと街中で子供に気付きやすくなったり。
頭の中にあることが、見ている時のどこにフォーカスがいきやすくなるか、に関わってきます。
例えば、私はファッション雑誌が好きです。ファッションも嫌いなわけではありません。が、しかし、ファッションセンスはなかなか磨かれません。笑
ある時、知人に「雑誌見てたら、あぁ、この色の組み合わせって合うんだなぁ、とか、こういう長さで合わせるといいんだなぁ、とかわかるじゃん?」と言われました。
ほぉぉぉ!ファッション雑誌ってそうやって見るんだね!!私はただ、「この服かわいいなー」みたいに眺めていただけで、そんな風にそれまで見たことがなかったのです。新鮮〜!
これには逆もあって、例えばメディアで、何かエクササイズの特集のようなものがある時、怪我をしそうな身体の使い方を見かけたりすると、「あぁぁ!そのまま真似されたら危険!!」とやるせない気持ちになったりしますが、
身体運動関係者でなければそんなことに気付くこともなく「なんだか痩せれそうなエクササイズだ!」とやってみたりすると思います。
街を友達と歩いていても、私は街ゆく人の身体の動きを見ているけど、友達は服装を見ていたり、自分の頭の中にあることにフォーカスされがち。お腹が空いてれば食べ物に。服が欲しければ洋服に。一緒に並んで歩いて、同じ方向を見ていても同じものを見ているわけではないって、相手が何を見てたかわかることは、頭の中にあることがわかるのかもですね。興味深い!
違うという前提から生まれる受け入れ態勢
海を眺めていても、波を見つめている人もいれば、海と空の境目を見つめている人もいるかもしれない。
つい、自分と同じものを見ているかのように思ってしまいがちだけれど、実は見てなかったり、見てても認識してなかったり、見えてなかったりします。
そして、例えもし、見ているのものが全く同じであっても、その見たものをどう思うかはまた違う。
見える世界も、言葉の世界も、音の世界も同じ。
自分とは違うのかも、という前提を持つことができたら、もう少しだけ良い意味で境界線が曖昧になるんじゃないかな、と思います。
自分と同じと思ってしまうと、そこに軋みが生まれたりする。
以前、アメリカのコロラド州ボルダーに住んでいました。ロッキー山脈の麓で、とっても美しくて、毎日写真を眺めているようなインパクト。
そこで出会った夫は、もちろんボルダーをとても綺麗だと認識していたようだったけれど、どうも感動が少ない。不思議に思っていたら…
これまたこの謎が解けるのは何年も経ってから一緒に行ったスイスで。山が半端なかった!!!カフェのテラスに座ると、すんごく緑できれいで大きな山がどどーんと目の前に!!
いやぁ、あれには参った。高校時代をスイスで過ごした夫はそんな山を見ていたわけなので、ボルダーのインパクトがそこまでなかったのは当然だったわけです。
ナイアガラの滝VSイグアスの滝なんかも、そうですね。どちらを先に見たかできっと印象が全然違う。
目で見えていること。それは現実なのか幻なのか。なんてとこまで飛躍させる気はありませんが、少なくとも物理的に、視力や身長でさえ見えてるものが違うという前提があったら、世の中もう少し優しくなれたりするところも増えるのかなぁ、なんて思った次第です。
自分と周りの人、どこが見えてるのか確認しても面白いかも♡
目の使い方と身体の使い方はリンクします。動きの指導者の人には特に気にしてもらいたいところです。
〈後記〉
2024年初のnote&ホリ研マガジンへの投稿です。
現在投稿数は117本。マニアックなところがありつつ、テーマも内容も流行云々からは掛け離れた普遍的なものなで、是非お楽しみください♡
今年はマガジン投稿はどんなペースでアップしていくか分かりませんが、ちょっと過去の記録的な感じでいろんな話を綴っていこうと個人的には思っています。気持ちの良い1年になりますように!
人見知りで、一人でも平気な顔はしていますが、応援してもらうことで力を得て、サポートされることはとても心の支えになります。サポートしていただけたら、すごく嬉しいです!