エモい景色を眺めてチルな夜を過ごして

 エモさの代表格。コインランドリー。
 ミュージックビデオに安易にコインランドリー出すの禁止。もうダサい。三周ぐらい回った結果としてダサいわ。コインランドリーにエモさを感じるな。安易にエモを生み出してくれるな。

 そもそもエモいっていう概念はどこから来たのだろうか。
 エモいの意味を調べたら複合的な感情の揺れであるとか、哀愁郷愁のようなイメージであるとかって出てくる。よくわからないが、わざわざあるはずの言葉を大括りにしてボヤけた言い方にしているようにしか思えない。

 だって、例えばよ、例えばコインランドリーに来た時になにか普段ないような情動があったなら、それは平穏かもしれないし、凪のようなものかもしれないし、もしかしたら非日常感からの華やいだものなのかもしれない。なんにせよ少し自分のことを落ち着いて観察すれば適切な言葉は出てくるはずだ。なのに、なのに、なんでエモいなんて言葉で大雑把に終わらせてまうのか!

 私は絶対にエモいなんて言わない。もし、私が言っていたら教えてほしい。その場で焼き土下座する。兵藤会長いなくてもするから。
「うわ、このハラミめっちゃエモいやん」
 これなら許して欲しい。それは絶対馬鹿にしてるから。

 エモいって言葉を使う人がいたとして、その人が意識しているのは訪れた情動自体ではなく、その情動を如何にしてアウトプットするのかっていうところにあるんじゃないかと思う。

 日常を生きていてると、心揺さぶられる瞬間はそれほど多くない。普段から剥き出しの感受性で生きていくのは結構しんどいから。だから厚手の手袋越しに触るみたいに世界と接していく。なんとなく輪郭を感覚だけでなでるみたいに日々を過ごす。

 しばらくすると、忘れていることに気が付く。なんでもない日々の中にあったはずのかけがえのない瞬間。それは思いがけず現れる懐かしい光景や、いつか映画で観たような美しい夕暮れにある。
 そういった瞬間を逃したくない。できることなら名前を付けて保存したい。
 だからエモいという言葉でラベリングしてしまう。郷愁や哀愁みたいなボンヤリした気持ちは人と共有しづらいから。それなら大括りなエモいって言葉でラベリングして人と共有したほうがわかりやすい。

エモいっていう言葉は共有を前提とした言葉になっている。

 そもそも、言い表せないような情動があったなら言い表さなくていい。
 都合よく言葉があてがえる場面ばかりではない。生きてきて色んな景色を見ているのだから、なんとも形容し難い複雑な感情が呼び起こされることもある。無理に言葉に落とし込むことのほうが難しいだろう。
 でも、人と共有したいなら、そういうわけにはいかない。なにか言葉をあてがって共感しやすくしたい。せっかく共有したのに共感がなければ寂しい。飲み会なんかで大胆なことを言った後に誰の共感もなければ不安になる。だから嫌いな上司の訳の分からない妄言にも首を赤べこみたいに振って共感の意を示すし、好きなのかどうか微妙な異性が顔を赤くしながら展開する訳のわからない恋愛理論にもウットリした目で応えてあげる。

 共有からの共感が加速して、短いテンポで繰り返される現代において、わかりにくい言葉や長い文章でのお気持ち表明はナンセンス! ノンノン! なわけですわ。インスタグラムでの投稿に短いハッシュタグをつけまくるのがインフルエンサーの所作なわけであって、ストーリーに文字だけの謎ポエム投稿をするのがキホンのキなわけであって、noteなんかに長文をダラダラ書き連ねる行為は共有という目的にはあまり向いていない手段になる。今はそれだけ共感型社会になっている。

 良い景色に出会った時に、どう写真に撮ろうかばかり考えている自分に気づく時がある。本当に嫌気がする。
 実際に見た景色の想い出を上回るような写真はない。フィルターでゴテゴテに加工してみせたって、私の想い出の中にあるオーストラリアの地平線に勝るものは決してない。
 あの時、私は写真を撮らなかった。どんな写真もビデオも想い出を陳腐なものに落としてしまうという直感があったからだ。今でも目を瞑ればあの景色が蘇る。
 果てしなく壮大で、息を呑んでしまうほど、命の力に満ちた地平線があった。見惚れるほどに混じりっ気ない青空があった。エモくなんかない。
 着いてすぐに中国人のツアー客たちが来て喧しくなったことも覚えている。その後行ったハンバーガー屋でデカすぎるハンバーガーが出てきたことも覚えてる。良い旅行だった。

 自分が一番感動した景色はなんだったか。自分が一番悲しかった景色はなんだったか。苦しかった時間に傍にあった物、涙の堰が切れる寸前に聴いていた音楽、野良猫が招いてくれた路地の匂い。
 そんな自分の大事なものを「エモい」の一言で片づけていいのか。いいや、だめだね。(反語)
 エモいって表現を反射で使ってしまうのは自分の大切なものを荒い解像度に落とし込んでしまう行為だ。エモくないんだ。あなたの日常は。もっと、かけがえのないもので振り返り難いものだ。だからその瞬間を飾りたいなら、最適な言葉を探してあげてほしい。

 というか、なにもこんなことはエモいに限った話ではない。

 なんやねんチルって!!! 誰がチルを使いこなせてんねん。まだ今までひとりも出会ってないわ自信持ってチルって言えてる奴。
「チルしていこ~」
「え、チルか? これ?」
「チルでしょ~」
「怪しいけどなあ、そもそもチルっていつ使うん」
「いや、チルって言ったら週末とか旅行の時じゃね」
「じゃあチルってなんなん。それって単に休みってだけちゃう?」
「いや、休みってだけじゃなくてぇ、なんかリラックスっていうかぁ」
「それリラックスでええやん。リラックスした休日やん」
「なんて言うのかな、ムード? そういう時ってチルいムードあるじゃん」
「それリラックスしやすいムードってだけやろ。チルって言わんでええやん」
「ていうかなんか寒くね?」
「お前が薄着すぎんねん」
 チル使いギャルもこんな風に問い詰めていけば何も言えなくなるわけですわ。本当にチルの意味を確信を持って掴めてる人類は未だいない。いるはずがない

 最初に私がチルと出会ったのは「CHILL OUT」というジュースだった。初めて自販機で見た時、なにか新しいエナジードリンクだろうと思った。200円ぐらいするし。買ってみて飲んでみる。美味しい。満足しながら缶をよく眺める。カフェインの類はない。あれれ、エナジーに繋がるようなやつが入っていないぞ。高麗人参とか、そういうやつ。もっとよく見るとリラクゼーションドリンクなどと書かれていた。はあ、なんだそりゃあ。こっちはジュース飲んでんだ。ジュース飲む時なんか活発に動きたいに決まってるだろう。ていうかchill outってなんだ。TOEICには出てこなかったぞ。留学中もたぶん使ってないぞ。どうなってんねん。
 
 これがたぶん2年前ぐらいのことだった。現在、チルの意味を調べてみると「ゆっくりくつろぐ」とか「まったり過ごす」といったものらしい。わざわざカタカナにする必要がない。

 チルとエモいは使われ方において構造が少し違う気がする。エモいは前述した通り、共感してもらいやすくするために本当にある情動の落とし込みとしてのエモいであった。
 チルは新しい領域の言葉である。日本語で一言で表現し辛いものに対してあてがわれた言葉のように思われる。
 雨上がりの匂いのことをペトリコールと表現するのは少しずつ認知されてきている。チルはそれと同質であるように思われる。ちょうど良い具合の言葉がなかったから、チルという言葉を持ってきたのだ。ペトリコールも元は造語であることを踏まえればいよいよ近しいものと考えられる。
 それならばチルを無理に否定する必要はないか。

 いや、やっぱりいやだ。チルいや。チルしたくない。
 チルに関しては使用している人の使い方に嫌悪感が招かれる。Twitterで検索をかけて使われている例文を探したが、
「この曲チルすぎて泣ける」
「チルい休日ではなくて、ヘトヘトになりそう」
「深夜にチルい感じでコーヒー飲みたい」
「チルするかー」

 ほら。みんな強引に使い過ぎなんよ。絶対にチルじゃないところで無理やりチルを入れてきてるから違和感だけが残る文章になっている。チルするかー。はまだ許されてる気がする。でも、チルすぎて泣けるはおかしい。そんなに心揺らされてるならそれはエモいだろ。
 調べるとチルは2021年の今年の新語大賞をとっていた。2年前に話題になった言葉でこれだけ使い方がまとまってないのは不思議だ。

 チルはね、みんながフワフワとしか定義を捉え切れてないのに強引に使おうとするからおかしくなっちゃう。背伸びしちゃダメ。背伸びして使われてるカタカナ言葉って聞いてる方が恥ずかしくなる。使いこなせる言葉だけ使っていこう。ビジネスと違って無理に使わなきゃいけない言葉じゃない。
 ビジネスの世界であれだけカタカナ言葉が行き交うのはそれが業界内の共通言語で、みんなが同じ定義を共有できてて使いやすいからだ。だから場所が変われば「鉛筆なめなめ」とか「空中戦」とか「一丁目一番地」って言葉が通じることもある。私の最初の会社の上司がそういう人だった。鉛筆なめなめしすぎてて鉛中毒で死なないか怖かった。

とにかく、もう卒業しよう。

 エモい景色やチルいムードに満たされた世界を抜け出して、本来あったはずの言葉で背伸びせずに話せる時間に戻ろう。
 馴染みのない新しい言葉に触れてみるのは悪くない。でも、それに振り回されたり価値観を再定義されちゃいけない。エモいって言葉を使えば情景や物がエモくなるわけじゃない。
 そう考えるとコインランドリーなんて誠に不憫な存在なのだ。エモさの表現に使われすぎた。そのせいで薄ら寒い舞台に変えてられてしまった。
 純喫茶も、古本屋も、町中華も、海沿いの町に落ちる夕暮れも。
 こういった舞台を扱う時には慎重にならなければいけない。特に作家志望の人間なんかは神経を尖らせなければいけないだろう。

 ていうか、ていうかね。今書いてて思ったんだけど、エモいって
「日常的なんだけど触れがたいもの」なんじゃないかな。
 郷愁とか哀愁っていうものもあるんだろうけど、一般的にエモいとされる純喫茶とか古本屋は懐かしいものかと言うとそうではない。むしろ日々見かけるようなもので距離感としては近いものなんじゃないだろうか。しかし、毎日立ち寄るわけではない。絶妙な距離感にあるのだ。
 その距離感の具合が日常の中に一種のラインを引く。習慣とイベント。毎日向かうオフィスの壁の染みにエモさが無いのはそれが単なる習慣であるから。たまたま立ち寄った純喫茶のブリキの人形の茶色い染みがエモいのはイベントになるからだ。
 そうだ。わかったぞ。エモいっていうのは日常の中にあるささやかなイベントだ。そう思うと、けっこう大切にしたいものだ。皆様にも大切にしていただきたい。まあ、ここまで読み進めている奇特な人が居るのかは知らないが。


さあて、長々と書いたことだし。エモい洋画見ながらコーヒー飲むチルい時間を過ごすぞ~。おわり。

#創作大賞2023
#エッセイ部門

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